3◆葛藤
――ラザファムが自分に何を言いたいのか、クラウスがまったくわからないわけではない。
けれど、クラウスは部屋から出たものの、アルスの部屋の扉を叩けなかった。結局そのまま宿を出て軒下にへたり込む。
アルスを護りたいのなら、魔王にならなければ。
けれど、魔の国に戻ればナハティガルの想いを無駄にしてしまう。
かといって、このままただアルスのそばにいたのでは、あの候補者の誰かが魔王になった場合、考えるのも恐ろしいことになる。
八方塞がりで身動きが取れなかった。
いや――そんな理由で動けないのではなかったかもしれない。
ただアルスに拒絶されるのが怖いだけだ。大事な守護精霊を失ってまで、引き換えにする値打ちがクラウスにあるだろうかと。
この軒下で無為に過ごした時間の長さを、クラウスはまるで自覚していなかった。心を無にして何も考えたくないと思っていたからかもしれない。
戻ってきたラザファムがそこにクラウスを見つけた途端に目を見張った。持っていた荷物を放り投げるように下ろし、クラウスの前に膝を突く。
「ここで何をしているんだ?」
低く押し殺した声にはクラウスを責める響きがあった。
それも仕方のないことだとわかってはいる。
「アルス様とは話したのか?」
クラウスは首を横に振った。情けない。
「どの面下げて話せばいいんだ?」
「何を言って……」
「俺がアルスからナハを奪ったようなものじゃないか。それで俺がどんな慰めを言える?」
あの時、クラウスがアルスの危機だと聞いて直情的に動かなければよかった。あとで考えると、もっと他にやり方があったはずだ。アルスに未練を残していた弱さがこの結末を招いたようなものだ。
ラザファムの表情が消え、端整な顔が近づいた。
「殴っていいか?」
「いいよ。好きなだけ」
ラザファムには殴る権利くらいあるだろう。
しかし、そう答えたクラウスに対し、ラザファムは呆れたようなため息を零しただけだった。
そうして、拳でドン、と胸を叩かれた。こんなのは殴ったうちに入らない。
「気まずいのはわかる。でも、そんなものは全部クラウスの事情だ。今はどうすればアルス様のためになるのかを考えるべきじゃないのか?」
相棒のナハティガルを失い、失意のどん底にいるであろう彼女。
もしアルスに責められるのだとしても、受け止めなければならないのだ。クラウスに感情をぶつけることでアルスの気持ちが楽になるのならそれでいいはず。
アルスのためと言いながら、自分のことばかり考えていたのだと気づかされた。クラウスがラザファムを見ると、ラザファムは微苦笑していた。
アルスを慰める役ならば、共に旅をしてきたラザファムでもいいはずだ。それが、クラウスに行けと言う。
――どこまでもお人よしだ。
「ラザファムの方がずっとアルスを幸せにできたはずなのに、どうして何も伝えなかった?」
これを言ったら、ラザファムは一度目を見開き、それから顔を顰めた。
互いの間でラザファムの想いは暗黙すべきもので、クラウスがこれを口に出したのは初めてだった。
「アルス様は君しか見ていない」
「それはお前が自分の方を向くように仕向けないからだ。お前の気持ちを知ったら、アルスだって――」
「先に君が現れた時、僕のことをじっと見ていたな。アルス様のそばにいる僕のことが気に食わなかった、妬ましかった、そういうことだろう?」
そんな目をラザファムに向けていたつもりはなかったが、指摘されるのならばそうだったのかもしれない。
事実、アルスのそばにいる男である以上、誰であっても許せなかった。
「君は結局のところ、良くも悪くも昔と何も変わっていない。アルス様のことしか考えられないくせに、ここで何をしていると言っているんだ」
ラザファムは人一倍努力をしておきながら欲を出さない。自分よりも周囲のことを考えてしまう。
クラウスは、そんなふうにはなれない。
ラザファムに敵うことなどないのに、それでもアルスを諦めきれない。ラザファムに任せた方がいいと、客観的な意見を拾ってみても、結局のところそれを受け入れることはできないのだ。
「……俺が女だったら絶対にラザファムを選ぶのに」
「そういうのはいいから、早く行け」
笑われてしまった。それがラザファムの気遣いだ。
幼い頃、クラウスがラザファムに声をかけて親しくなったのはただの気まぐれだった。
クルーガー伯爵家は嫡男を非常に大事に育て、次男のラザファムには厳しかった。常に兄を立て、一歩下がって控えるように意識させていた。
そのせいか我の強い貴族の子息の中にあって、彼だけはそこに染まりきれていなかった。そこにほんの少し興味をそそられたに過ぎなかった。
それが今となってはこんなにもクラウスを信じてくれている。彼と友人でいられたことを真っ先に感謝すべきなのかもしれない。
◇
クラウスはやっと重い腰を上げ、宿の中へ戻った。
ラザファムはその背を見送ってほっとした。
アルスへの想いを残していながら、アルスのために突き離そうとしたクラウス。
想いの強さを知るからこそ、それがどれほどの苦しみであったかも考えずにはいられない。
そして、今はアルスの心が苦しみから護られるように力を尽くすしかない。
それはクラウスにしかできないことなのだと思う。
旅の最後にこんな思いをすることは覚悟していたはずだから。
その背を見送って安堵するラザファムの足元で、白猫の姿をしたエンテがつぶやいた。
「あなたも難儀なお人ですね」
精霊にまでそんなことを言われてしまう。ラザファムは思わず自嘲した。
「僕は欲張りだから、友達が苦しむのも嫌なんだ。大事な二人だから、余計に」
それでも、エンテは嗤わなかった。どこか元気がない。いつもはピンと反っている耳さえ落ち込んでいる。
「誰かを想う気持ちは、時に不可能を可能にするほど尊いもののようです。……ナハティガルがしたこと、私には到底真似ができません。あんな力もなければ、その覚悟もありません。ずっと、あんなのより私の方がずっと優れているつもりだったのですが、私ではアルステーデ姫様の守護精霊など務まらないのだと思い知りました」
「……アルス様の守護精霊は誰にも代われない。でも、僕がエンテにとても助けられてきたのは本当だ」
エンテは少し首を持ち上げてうなずくような仕草をした。ラザファムの言葉でも慰めになったのならいい。
「あの、それで――」