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1◆風に揺らめく

『ボクは、アルスが悲しいのは嫌なんだ』


 あの瞬間、ラザファムは呆然としながらも奇跡を見た。

 けれどそれは、アルスにとって簡単に喜べるものではなかったのだ。


 大事なものと引き換えに、もうひとつの大事なものを差し出したようなものなのだから。


 放心して冷たい大地にへたり込んだアルス。

 ラザファムも彼女にかける言葉が出てこなかった。

 この時、クラウスは――。


 魔に染まっていたクラウスがナハティガルによって浄化され、クラウスは()()()()に戻れた。今のクラウスは日の光の下を歩ける、普通の人間だ。


 アルスがこの瞬間をどれほど待ち望んでいたことか。クラウス自身もそうだと思っていた。

 それなのに、クラウスは喜んでいるふうではなかった。膝を突いたまま立ち上がらない。

 ナハティガルの犠牲に心を痛めているにしてもクラウスの様子はおかしかった。


 ラザファムはアルスを気にしつつもクラウスに駆け寄った。急に動いたせいか、先ほど殴られた頭がズキズキと痛む。


「クラウス!」


 呼びかけると、クラウスは緩慢に首を向けたが、あまりにも情けない顔をしていた。クラウスのこんな表情を見たのは初めてだ。

 何も答えず、彼はかぶりを振る。


「……体が痛むのか?」


 体に急速な変化があったのだ。もしかするとそういうこともあるのだろうか。

 こんな症例は知らないのでなんとも言えない。

 しかし、そうではなかった。


「何も……」


 クラウスはそう答えた。


「じゃあ、立て」


 悲しいのは皆同じだ。


 ――いや、同じではない。

 アルスの苦痛に比べたら、同じだなどとは言えない。


「ナハがいないんだ。アルス様を護るのは僕たちだろう。呆けている場合じゃない」


 何よりもアルスを優先する。クラウスはそういう男のはずだ。


 クラウスは一度目を閉じ、立ち上がった。それでも、アルスに駆け寄ろうとしないのは、自分の状態にまだ不安があるからだろうか。

 本当に元の自分に戻ったのか、これが一時的なものでないのか、クラウスにも判断がつかないのかもしれない。


 仕方なくラザファムはアルスに近づく。


「アルス様……」


 腫れ物に触れるかのようにそっと声をかける。

 アルスは、泣いてはいなかった。ラザファムを見上げると、自分の足で立ち上がった。


 ――泣いていた方がよかった。表情が消えて、目が虚ろに焦点を結ばない。


 今、冷静になれるのは自分だけだとラザファムは思った。

 本音では少しも冷静ではないけれど、だからといって三人とも呆けていたのではナハティガルに申し訳ない。


「こうなっては、すぐにでも城へ戻って陛下とベルノルト様に事情を報告すべきですが、帰るにも安全の確保が重要です。先ほどの男たちがいるかもしれませんから、すぐにヴァイゼに引き返すのは得策ではないかと思います。安全を考えればシュミッツ砦に向かうという選択肢もありますが、その場合あなたの正体を隠しておくのは難しいでしょう。当初の目的だった北のネーフェ村へ向かったとしても、帰りが遅くなるだけです。アルス様はどうされたいですか?」


 アルスに問いかけても、今のアルスはろくに考えをまとめることができない。わかっているけれど、何か言葉を返してほしかった。


「……ノルデンの、コルトの父親のこと」


 ポツリ、と答える。それでも、顔には生気がなかった。


「報せは送りました。僕たちが行った方が対処は早くなりますが、行かなかったからといって放置されることはないはずです。アルス様は今、まずご自分のことをお考えください」


 それを言うと、アルスは、そうか、とだけつぶやいてうつむいた。

 その先が続かない。ラザファムはクラウスの方へ振り返る。


「クラウスはどうすべきだと思う?」


 すると、クラウスはギクリと肩を揺らし、それから険しい表情のまま言った。


「俺は……シュミッツ砦から陛下へ連絡を入れて迎えを待った方がいいと思う」


 ラザファムも同意見だった。小さな村では魔獣が出た時に対処できない。精霊を呼び出しても、一体であんな魔獣と戦うのは無理だ。


「……クラウス、君が従えていたあの獣は人を襲うか?」


 そうしたことを問いかけるのは酷なのかもしれないが、訊いておいた方がいい。

 クラウスはうなずいた。


「敵と見なせば襲うだろう。今の俺にはもう制御できない」


 答えた表情が苦々しくて、クラウスは浄化されたことを喜んではいないのだろうかと感じてしまった。

 そんなはずはないと願いたいけれど。


 クラウスの黒尽くめの姿がいつまでも闇の名残のように、ラザファムには不吉に感じられた。

 自分の外套を脱ぐとクラウスに投げて寄越す。


「その恰好では変に目立つから、それを着ていたらいい」

「ラザファムは?」

「僕はローブを重ねて着てもいいし、いざとなったらエンテにどうにかしてもらうから凍えることはない」


 クラウスは、ありがとう、とつぶやいて外套を羽織った。遠慮をして断ると余計に迷惑だと察したのだろう。


「アルス様、シュミッツ砦へ向かいます。よろしいですか?」


 ラザファムが訊ねると、アルスはうなずいたような、風に揺らめいただけのような仕草をした。


 触れていいのか躊躇う。クラウスは、アルスを心配そうに見つめた。

 本当に、見つめているだけだった。


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