24◆悲しいのは
「いいのか、こんなことをして――」
男は吐き捨てるように言った。額に大きな傷が走り、そこから赤黒い血が流れる。
それに対し、荒らげることこそないが怒りを込めた声が大気を震わせた。
「どの口が言う?」
アルスはその声を聞き、心臓を貫かれたような痛みを感じた。思わずコートの胸元を強くつかむ。
男は戦慄き、カッと目を見開くと、なりふり構わず獰猛な獣のように喚き始めた。
「お前は魔王になるんだろう? 精霊王を信奉するレムクール王族を庇うなんて、そんなことが許されるのかっ? お前はもう人じゃないんだ! 魔族になったんだよ! なあ、そんなに何もかも手にできると思うなよ! なんとか言えよ、クラウスっ!」
この男は何を言っているのだろうかと、アルスはすぐに呑み込めなかった。
それというのも、拒絶したい言葉ばかりであったからに他ならない。
魔王。魔族。
人であったはずのクラウスが魔族になったと。
けれど今、クラウスはアルスたちを庇うように立ちはだかっている。
魔族というのならば、この行いは矛盾することではないのか。
「――――れ」
噛み締めた歯の隙間から零れるような小さな声がした。
「黙れ、ハロルド」
「もう王様気取りかっ? 俺に命令するなっ!」
ハロルドと呼ばれた男は顔を血に染めながら叫ぶが、クラウスは動じなかった。
クラウスの周囲の地面に不思議な紋様が浮かび上がる。闇色をしたそれはひどく禍々しかった。
何をしたのかはよくわからない。佇むクラウスの黒衣が風にはためく。
クラウスは手を使わずに男を攻撃したようだった。凝縮された稲妻のような閃光が男に向かう。
男は防御したものの、完全に防げるものではなく、左肩から脚にかけて負傷したように見えた。焼け焦げたような煙が上がっている。
男は荒く息をし、揺らめいて幻のように姿を消した。力を振り絞って逃げたのかもしれない。
クラウスもまた肩が上下している。けれど、振り向きはしない。
――クラウスはアルスたちを助けに駆けつけてくれたのか。
だとするのなら、アルスを知らないなんて嘘だ。
「クラウス」
呼びかけると、クラウスは怯えたように、恐る恐るアルスの方に振り返った。
その表情を見た時、アルスはクラウスが何も変わっていないのだと思えた。
黒く染まっていても、表情は以前と同じだ。アルスが無茶をするたびに困った顔をしてついてきた、あの頃と同じ――。
アルスが立ち上がろうとした時、ラザファムの意識も戻ったようだった。
悲しい目で二人を見て、クラウスは言った。
「頼むから、もう帰ってくれ。アルスが城で大人しく護られていてくれないと、全部意味がなくなるから」
忘れてなんていなかった。むしろ、まだ心配してくれていた。そのことが嬉しく、そして切なかった。
互いの想いがあるからこそ、引き離される苦痛は増すのだから。
アルスは顔をくしゃくしゃに歪め、かすれた声を上げた。
「私のことを忘れたとか、ひどいじゃないか。私がどれだけ傷ついたと思ってる?」
「ごめん。でも、俺はもう戻れないから、アルスに忘れてほしくて」
今の自分を恥じるようにクラウスはうつむいた。今でもアルスは、クラウスは何も悪くないと言いたい。
「忘れられるわけがないだろう! 戻れないなんて簡単に言うな!」
簡単に言っているわけではないのはわかっている。それを言う以上、どうしても無理なのだと。
けれど、認めたらすべてが終わってしまう。
クラウスはどうにか笑顔を浮べたけれど、本心から笑いたいわけもなく、それはアルスのために作った表情だった。
「俺もアルスを忘れるのは無理だった。だから、アルスのことは覚えたまま、胸の奥に大事にしまっておくんだ。どうか、城に帰って幸せに生きてほしい」
「さっきのヤツ、お前が魔王になるって言ってたじゃないか! なんでクラウスが? ちゃんと説明してくれ!」
どんなに声を張り上げても、クラウスはかぶりを振るだけだった。
立ち位置がとても遠く感じられた。もっと近くに、手を取れるほど近くにいてほしいのに。
「絶対、何か手があるはずだ。私がこれからクラウスをもとに戻す方法を探すから、一緒に帰ろう!」
希望を持たせる方が酷だとばかりに、クラウスは苦しそうな顔をするばかりだった。そうして、後ろ向きに一歩下がった。二人の距離が広がる。
「無理だよ。アルス、現実を見ないと。ほら、俺は真っ黒だ。もう駄目なんだよ」
「そんなこと……っ」
「その気持ちだけで十分だ。アルスに出会えて、俺は幸せな気持ちをたくさんもらった。最後にそれを伝えられてよかった」
手を伸ばしたら、クラウスはそんなアルスの手から逃れるよう、さらに身を引いた。
「こんな俺ではアルスの手は取れないから」
二人を隔てているものは目に見えない。けれど確かに、確実にそこにある。
「嫌だ……」
嫌だと言うのは容易いが、言い続けても喉が枯れるだけだ。何も動かせはしない。この別れを受け入れるしか道はないのだろうか。心が壊死してしまいそうに苦しかった。
ラザファムが呻くような声を上げる。
そして、ナハティガルがアルスのコートの下から抜け出して飛び立った。先ほどのダメージはもうないのだろうか。
「クラウス!」
ナハティガルはクラウスの周囲をうるさく飛び回った。クラウスはそんなナハティガルを懐かしそうに、眩しそうに見た。
「ナハ……」
今のクラウスにとって精霊は強すぎる存在なのだろう。それでも、ほんの少し笑っていた。
「クラウス、お願いだよ。アルスがまた泣いちゃうから」
まるで子供のような扱いを受けたけれど、本当に泣いてしまうから何も言えない。
ナハティガルはアルスが泣かないで済むように必死でクラウスに頼み込んでくれる。かといって、それでクラウスがどうにかできるわけではないのだけれど。
「ごめんな、ナハ」
それでもナハティガルは引き下がらなかった。クラウスの肩にちょこんと乗る。クラウスは驚いたように目を見開いた。
「ボクは、アルスが悲しいのは嫌なんだ。アルスのためだったら、なんだってできるんだから」
そこからは、何が起こっているのかわからなかった。
ナハティガルの放った光があまりにも眩しくて、とても目を開けていられなかったのだ。ナーエ村の村長の館で見せたあの浄化の力のようでいて、少し違うような気もした。
まさか、ナハティガルはクラウスの浄化を試みているのか。あの赤ん坊の時とはわけが違うのに。
無茶をして、また何日も寝てしまう。それでも、アルスのために何かしたいというナハティガルの心は、いつもアルスをどん底からすくい上げてくれた。
ラザファムがハッと息を呑む音がした。
光が消えてアルスが目を開けると、一匹の黒蜥蜴が地面を素早く這い、どこかに消えてしまうのが見えた。そして――。
目の前にいたクラウスの髪が日の光の下で輝く。
「クラ、ウス?」
恐る恐るアルスは声をかけた。
クラウスは眩しすぎる光に目を眩ませたままだった。けれど、その瞳の色は最早闇色ではなく、以前のような柔らかい茶色をしていることに当人も気づいていないらしい。肌にも血色が戻っている。
ここにいるクラウスは、魔に染まっていた状態ではない。
あのまま何事もなく育っていればこうなっただろうという清々しい青年の姿だった。これが本来のクラウスだ。
アルスは感涙にむせび泣きたくなったが、それよりもナハティガルを労い、感謝したい気持ちでいっぱいだった。
「でかした、ナハ! すごいじゃないか!」
喜びに溢れる声で呼びかけるが、ナハティガルが得意げに返してくることはなかった。
ナハティガルは、どこにいるのだろう。
「……ナハ?」
アルスは辺りを見回すけれど、クラウスは呆然としたまま少しの喜びも見せなかった。それどころか絶望するように膝からくずおれた。
喜んでいいはずのことが起こったのに、震えが止まらなくなった。
アルスは自分の心臓の音だけを聞かされているような気分になる。風の音も何も聞こえない。
「ナハ! ナハティガル! 私が呼んでいるんだから、すぐに戻ってこい!」
それでも、ナハティガルはどこにもいない。
ラザファムを見遣ると、さきほどまでのクラウスよりも余程青い顔をして言葉を失っていた。それが何故なのか、アルスは聞きたくない。
「ラザファム! エンテを呼んでくれ。エンテならナハを探せるから」
エンテは気配に敏感だからすぐにわかるはずだ。もしかすると、ナハティガルは疲れすぎて精霊界に帰ったのかもしれない。アルスは許可していないけれど、切羽詰まっていたのなら仕方がないだろう。怒ったりしない。
それでも、ラザファムはすぐに返事をしなかった。心なし潤んだ目をアルスから背ける。
「アルス様……」
「いいから、早く!」
ラザファムにはアルスを落ち着けることはできないと思ったのか、諦めたようにうなずいた。アルスはラザファムの手の甲がポゥッと明るく光るのをただ祈るように見つめていた。
そして、白猫の姿をしたエンテが現れるなり、アルスはエンテに詰め寄った。
「エンテ! ナハを探してくれ!」
その勢いに押され、エンテは困ったように尻尾を下げてしまった。
「姫様……」
「ナハはどこにいるんだ?」
エンテはうつむいていたけれど、それからやっと顔を上げた。
「もういません」
「えっ?」
「消えてしまいました。ナハティガルの気配はしないのです」
これはごまかしの利かない事実なのだ。
だからこそ、エンテは隠すことができない。何をどう言い繕っても、ナハティガルはどこにもいないのだから。
『アルスのためだったら、なんだってできるんだから』
ナハティガルと引き換えにクラウスは戻った。
この事実を、アルスはどう受け止めればいいのかわからない。体がバラバラになりそうな感覚だった。
アルスが悲しいのは嫌だと言ったのは誰だ。
これでアルスが喜んで幸せに生きていけると思っていたのなら、ナハティガルはアルスのことを何もわかっていない。
アルスは寂しがり屋だと、そんなふうに言ったくせに。
ひどい現実にアルスは頭を抱え、耳をつんざくほどの声を上げた。この声さえ、ナハティガルには届かない。
ただ三人、ポツリと取り残された。
クラウスを取り戻すという目的は果たされた。
アルスの旅はこうして終わりを迎える――。
【第4章 ―了―】