23◆襲撃
ローベ村から、アルスたちはさらに北へと旅立つ。
季節が移り変わるほどの歳月が過ぎ去ったわけではないが、気持ちが沈んでいるせいか、世界が薄暗く色を失ったように映る。
重たい足を引きずるように道を歩く間、ナハティガルはずっとアルスの首の辺りに寄り添っている。あんなにお喋りなのに、今は何も言わない。ただアルスのために黙ってくれている。
ラザファムも自分からはほとんど発言しなかった。アルスが訊ねたことに対してだけ返事をくれる。
――あと少ししたら、いつもの自分に戻らなくては。
いつまでも労わってくれる相手に甘えていてはいけない。
それでも、心の傷が思いのほか痛くて塞がらないままだった。
大好きなクラウス――。
出会った時から特別だった。人よりも優れた能力を持ちながらも驕ることなく、他者を蔑むような真似をしない人柄を尊敬できた。
同じ年頃の女の子たちが恋とか愛とかそんな言葉に振り回されている時でも、アルスがクラウスに向ける好意に変化はなかった。とにかく特別で大好きだった。
好きなことに間違いなかった。ただ、時々、クラウスがアルスに向ける感情と自分がクラウスに向ける感情は少し違うのかもしれないと思ったりもした。
クラウスがアルスをじっと見つめ、目が何かを訴えるような時がふとした拍子にあった。
あの日、クラウスと別れることになった日に、クラウスはアルスを抱き締めた。体の熱から想いを伝えるようにして。
クラウスは、真剣にアルスを想っていてくれた。その感情は多分、好きを通り越した先の愛情だった。それに答えるにはアルスの方が子供すぎたのだ。
けれど今、こんなことになって体がバラバラになりそうなくらい胸が痛い。
あの日のようにクラウスに抱き締めてほしいと願ってしまう。
もう、戻れやしないのに。
ぐだぐだと考え込むと涙が浮いてきそうになる。
アルスは曇った空を見上げて涙をやり過ごす。そして前を向いた時、道の先に人がいた。
黒髪黒衣の長身を見た瞬間、アルスはクラウスと見間違えて息が詰まったけれど、それはクラウスではなかった。
風体は似ていても、クラウスよりももう少し背が高く、年上のようだ。顔立ちは整っているが、鼻梁の線や切れ長の目からは傲慢とも受け取れるような気位の高さが窺い知れた。
そんな男が青白い顔を歪めて笑っている。ナハティガルがアルスのフードの下から飛び出してきた。
「アイツ、魔族――うぅん、魔族っぽいヤツだよ! トラウゴット草の時のヤツみたいなの! ……あと、クラウスと」
甲高く叫んだが、言葉尻が萎む。
ラザファムは空を飛んでいたイービスを呼び寄せた。彼の手の甲がパァッと淡く輝く。
「アルス様、ご用心ください」
そう言ってアルスを背に庇うが、ラザファムに余裕はないように感じられた。アルスも剣の柄に手をやる。
すると、黒衣の男は言った。
「レムクール王国のアルステーデ姫。あなたのことはどう扱うのが一番いいのだろうな?」
「なんだと?」
この男はアルスが何者なのか知っていて目の前に現れたのだ。
目的はわからないが、レムクール王族を狙っているのかもしれない。
ナハティガルが最大の警戒を見せるように毛を膨らませる。ラザファムもイービスを腕に停まらせた。
けれど、向こうは薄気味悪く笑っているだけだった。精霊を気にしているふうでもない。
クラウスと同じで、魔に染まっているが魔族ではないから、精霊の力も効きづらいということもあるのだろうか。だとしたら厄介だ。
アルスは緊張しつつ剣を抜きかける。
すると、黒衣の男は外套の下から何かを取り出し、地面に叩きつけた。ガシャンとガラスが割れる音がすると、そこから煙が漏れて、その煙は風に乗って漂う。
吸ってはいけないのだと思い、とっさに腕で口を庇ったが、その煙が作用するのは人ではなく精霊たちだった。
「これは……」
ラザファムの腕に停まっていたイービスの首が下がる。
「イービス?」
そして、ナハティガルも――。
「これ、あの時のだ。エンテと瓶詰にされたヤツ……っ」
まぶたが半分下がって、尾羽がプルプルと震えている。この煙は精霊たちにとって害のあるものらしい。
アルスはナハティガルを庇うように抱き締めた。
以前とは違い、瓶に入れられることこそなかったが、力を発揮できる状態ではないようだ。あの男の余裕はそういうことだったらしい。
ラザファムは痛々しい表情を浮かべ、イービスを還した。しかし、それでは戦えない。
蟲と戦った時のような矢が通用する相手ではないだろう。アルスはナハティガルをコートの下に押し込み、剣を鞘から抜ききった。
ラザファムも弩を取り出すが、男は蜃気楼のようにフッと揺らめいたかと思うと、次の瞬間にはラザファムの目の前にいた。
「お前に用はない」
ささやくように言い、声の穏やかさとは裏腹にラザファムのこめかみの辺りを殴りつけた。ラザファムの体は吹き飛び、脳震盪を起こしたのかすぐに起き上らない。
「ラザファム!」
アルスがラザファムに駆け寄ろうとしたら、髪の毛と剣を持つ手とをそれぞれ乱暴につかまれた。ギリギリと絞められ、徐々に痛みが強まっていく。
――悪い夢を見ているようだった。
これではまるで二年前の再現だ。あの時もアルスは何もできず、クラウスがその身を犠牲にして逃がしてくれた。今度はラザファムが犠牲になるのか。
そんなのは嫌だ。絶対に。
けれど、アルスが睨みつけても男が怯むことはなかった。
「つかまえた。さて、どう料理しようか? ぐちゃぐちゃに切り刻む? それとも、裸に剥いて凌辱してやろうか? あいつにとって、大事な大事なお姫様だ。どれが一番の苦痛だろうな」
男の顔は憎しみで汚れていた。整った顔が醜悪に映るほどに。
アルス個人を憎んでいるのとは違う。この男はアルスのことなど見ていない。
「レムクールになんの恨みがある……っ?」
やっとそれを言ったが、男は鼻で笑っただけだった。
「別に。そういうことじゃなくて、俺はあいつの苦しむ顔が見たいんだ。あいつのせいで俺たちは、俺は、ガラクタだ」
手首に力が込められ、アルスは剣を取り落として苦痛に呻いた。
この時、一筋の光が鞭のように現れ、アルスの髪をつかむ男の手を弾いた。
コートの下からナハティガルの弱々しい声がする。
「アルスに、さわ、る、な」
すると、男は手に火傷のような傷を負いつつも、不意に表情を和らげる。
「なるほど、さすがはレムクール王族の守護精霊といったところか。あの瓶の中身は魔山の石を砕いて作った、言わば魔の因子の塊だ。少しばかり風があって効きにくいとしても、並の精霊なら弱体化させられるのに」
精霊は魔を浄化するけれど、あまりに濃い魔性に対しては負けてしまうこともある。あの煙は相当な毒性を持つのと変わりない。
――今、ここに救いはない。助けは来ない。
それでも、アルスは自分がどうなってもナハティガルとラザファムのことは救わなくてはならない。
ただ、そのために何をすべきなのだろうか。
ただ震えているだけではいけないのに、剣にさえ手が届かない。
助けてと命乞いをすればいいのか。
アルスが聞き分けなく飛び出したりしたから、すべてはアルスのせいなのだ。アルス以外を狙わないでくれるのなら、プライドもどうでもいい。命乞いくらいはする。
すると突如、ひと際強い風が吹き、アルスの髪をなぶった。
この風はただの風ではなかった。この突風でアルスを捕らえていた男の手が外れたのだ。
アルスは瞬時に男と距離を取る。心音が乱れに乱れ、息をするのも苦しかったけれど、なんとかラザファムのもとへ駆けた。
倒れているラザファムの脈を確かめ、生きていることにほっとしたのも束の間――顔を上げた時には黒衣の男が二人に増えていた。
もう駄目だ、と絶望するしかなかった。
けれど、その後姿をよく見ると、まるでアルスたちを庇うように立っている。
あの男と対峙するように、そちらに顔を向けている。
まさかと思う。
アルスを知らないと、二度と目の前に現れるなと唾棄したのだから、そんなはずはないのに――。