19◆苦楽を共に
馬車の御者は乗客が王妹であることを知ってしまい、ひたすら委縮してしまっていた。
魔獣まで出たのだ。普通の客が相手なら、ここで運賃を全額返してでも馬車馬の轡をヴァイゼの町に向けていただろう。
ただし、アルスは無理をしてローベ村まで運んでくれた御者に対し、ろくに言葉をかけることもしなかった。全部抜け落ちて、ただ抜け殻のように呆然としていただけである。
そんなアルスを気遣いつつも御者に手厚く礼を尽くしたラザファムは、寒風からさえも護るようにアルスを宿の部屋へ落ち着けてくれた。
「隣の部屋にいます。何かございましたらお呼びください」
アルスは、ん、とだけ返事をした。
そして、硬いベッドに倒れ込み、ナハティガルを押し潰すような勢いで抱き締めながら泣いた。声を出さないように、それでも涙だけは止めどなく溢れてくる。
「アルスぅ」
ナハティガルがアルスの腕の中から這い出し、アルスの頬に体を擦りつける。ナハティガルにも心配をかけてしまうけれど、今は泣いて涙を出しきってしまわないとおかしくなりそうだった。
アルスの頭の周りで羽をバサバサ振りながら、ナハティガルは何やら一生懸命に訴えている。
「あっ! ねえねえ、隣の庭に塀ができたんだって。へー、カッコイイ!」
「そ、それから屋根が飛んでっちゃったんだって。やーねー!」
「でもって、でもって、猫が寝込んで寝転んでたんだって!」
ナハティガルには悪いけれど、とても笑ってやるゆとりがなく、アルスのグスグスという泣き声だけが部屋の中にある。
クラウスがノルデンへ送られたと知った時も泣いたけれど、今はあの時以上に苦しかった。静まり返った部屋で、ナハティガルはとにかく焦って足を交互に持ち上げて足踏みしている。
「そうだ、アルス、美味しいもの食べたら? アルスの好きなイチゴでお菓子いっぱい作ってもらおうよ! ボクは食べられないけどさ、お菓子って綺麗でキラキラしてて、見てるだけで楽しいしさっ」
キラキラした、赤いイチゴに彩られたティータイム。
そんな光景の中には幼いクラウスがいる。優しく微笑み、イチゴを頬張るアルスを見つめていた。
思い出して、ギュッと胸が激しく絞めつけられる。
「……要らない。なんにも要らない」
クラウスが戻らないのに、もう楽しいことなんて何ひとつ考えられない。
ただ苦しくて、胸が痛くて、自分の感情なのに理解できなかった。
アルスはクラウスが大事で、大好きだった。
それなのに、今、そのクラウスが暗い目をしてアルスを赤の他人のように扱った。
傷つくのは当然だ。
ただ、この痛みが自分で思っていたものと違う気がして仕方がない。
傷ついたし、悲しい。
その度合いが異常なまでに。
まるでアルスはクラウスなしでは生きていけないかのような息苦しさを感じている。大事だけれど、こんなにもクラウスに依存しているつもりはなかったのに。
クラウスが二度と戻らず、アルスを思い出さないのだとしたら、この先一体何に希望を持って生きていけばいいのかわからない。
すべてを見失ったような気持ちだった。
この時、ナハティガルはすっかりしょげ返っていて、一緒にボロボロと泣き始めた。
「ナハ……」
アルスはそんなナハティガルを、今度はそっと胸に抱く。
「アルスがつらいのにっ、ボク、守護精霊なのにっ、なんにもしてあげられなくてごめんよぅ」
ナハティガルまで泣かせてしまった。それを申し訳なく思う。
守護精霊であるナハティガルはどんな時でもアルスと苦楽を共にするのだ。
「ごめん。それから、ありがとう」
えぐえぐと泣いているナハティガルだが、その存在にアルスは心が慰められる思いだった。
いつまでも泣いていたところで現実は変わらない。
アルスがこれからどうすべきなのかを考えなくてはならなかった。
◆
ラザファムはアルスを宿の部屋に落ち着けると、やり場のない感情の捌け口を探したくなったが、そんなものはどこにもなかった。だから自分の中で抑え込み、呑み込むしかない。
本当のことを言うと、クラウスのあの禍々しさを目の当たりにするまで、ラザファムはクラウスが魔に染まったという話を軽く受け止めていたのだと自覚した。それは軽度で、あそこまで染まりきっているとは思っていなかったのだ。
それはただの願望だった。
何も覚えていないと言うのは、脳まで魔の因子に侵されたと見るべきなのだろうか。
あんな惨たらしい現実にアルスが打ちのめされないわけがない。
どんなことがあっても、アルスのことだけは覚えていてほしかった。
――ただ、クラウスが最後に向けた視線。
それが忘れられない。
アルスよりも長くラザファムの方に留まったあの視線の意味はなんだったのだろう。
女性であるアルスよりも敵意を向けやすかったと、ただそれだけのことなのか。
何もわからないけれど、それでもクラウスはもう戻ってこないのだ。
これからどうすべきなのだろう。
アルスはどのような決断をするのか。
彼女の意志を尊重したい。
願わくは、アルスがこれ以上傷つきませんようにと祈るしかなかった。
何かできることがあるのなら。
アルスがラザファムに何かを望んでくれるのなら、喜んで差し出すのに。