17◆もう二度と
アルスは目を大きく見開き、目の当たりにしているものを確かめる。
手が届く距離ではないけれど、目視できるところにクラウスが立っているのだ。
ノルデンからここまで抜け出してきたのだろうか。
だとしても、咎められる必要はない。本来クラウスはなんの罪も犯していないのだから、ノルデンへ送られたこと自体がおかしい。
文句を言う者がいたとしても、今度こそアルスがそうしたものからクラウスを護る番だ。
心臓が、ドクン、ドクン、と張り裂けそうな痛みを訴えてくる。
クラウスに会えたらまずなんと声をかけようか。ずっと考えていたけれど、言いたいことがたくさんありすぎて考えがまとまらなかった。
結局、顔を見て零れる言葉が本心だ。
今、クラウスが目の前にいる。やっと、会えた――。
「ク、クラウスっ」
急すぎて、どこか実感が伴わない。ふわふわした心境のままアルスが一歩前に進もうとした時、ラザファムに手をつかまれた。
「いけません、アルス様! あの魔獣が見えませんかっ?」
本当に見えていなかったのかもしれない。アルスはクラウスしか見ていなかった。
クラウスは、低い唸り声を上げる魔獣のそばに立っていて、それでも魔獣に襲われることがない。それどころか、魔獣を従えているようにすら見えた。
それが意味するところを考えたくない。
「あ、あの……」
アルスが声を発すると、ナハティガルが尾羽をピンと立てて言った。
「あれは間違いなくクラウスだよ。でも、真っ黒だ。魔に染まっちゃってる……っ」
「そんなっ」
自分の体が冷えきって、まるで言うことを利かなくなった。足が借り物のように重たい。
これまで、皆がクラウスのことをそんなふうに言っても、アルスは信じていなかった。まだ大丈夫だと勝手に思いたがっていた。
その甘さに打ちのめされる。それでもアルスは精一杯、祈るような気持ちで声をかけた。
「クラウス、私はお前に会いに来たんだ。なあ、一緒に帰ろうっ?」
そんなこと、できるはずがないと、頭の中で冷静な自分が声を上げる。
けれど、それと同時に愚かな自分が希望を捨てては駄目だと言い張るのだ。
魔獣たちは今にも飛びかかってきそうなのに、クラウスはじっとこちらを見据えるだけだった。アルスを見ても少しも心が動かされていないかのような――。
そして、クラウスの薄い唇から言葉が漏れる。
「お前は誰だ」
「えっ?」
「俺はお前など知らない」
冷たい声がアルスを拒絶する。アルスのことを知らないと言う。
クラウスが、アルスを知らないと。
魔に染まったせいで過去を忘れてしまったというのだろうか。
アルスは手に力を込めて腹の底から気持ちをぶちまける。
「私はお前の婚約者だ! そう簡単に忘れてもらっては困る! 私がどんな気持ちでここまでやってきたのか、お前にはわからないのかっ?」
泣くな。
目を逸らさず、元のクラウスに戻ってほしい一心でアルスは手を伸ばす。
けれど、クラウスは黒い、闇夜のように染まった目でアルスを見る。
以前の、柔らかなあたたかみのある目ではない。
「もしお前が以前の俺に関わりのある者だとしても、今後二度と俺に関わるな。俺には過去など必要ない」
「そんなっ」
思わず身を乗り出しかけたアルスを、ラザファムが今までにないほどの強い力で繋ぎ止め、引き寄せた。
「アルス様、落ち着いてください!」
手首に痣ができそうだった。
何がいけないと言うのだ。相手はクラウスなのに。クラウスがそこにいるのに。
「放せ、ラザファム!」
アルスがラザファムの手を振り解こうとすればするほど、ラザファムはアルスの反対側の腕もつかんできた。そんな二人を見るクラウスの目が冷ややかだった。
「少なくとも俺はお前の味方ではない。死にたくなければ俺の前に現れるな」
そう言って顔をしかめると、クラウスはなんらかの術を使い、自分と魔獣とをその場から消し去った。その後には何も残っていない。ただの人ができる技ではなかった。
――やっと会えたのに。
こんなのが待ち望んだ再会だなんてことがあっていいのか。
アルスはその場にぺたりとへたり込む。ナハティガルがアルスの頬に頭を擦りつけてきた。
「アルス、だいじょおぶっ?」
「……じゃない」
「ほぇ?」
「大丈夫じゃない! 大丈夫なわけないだろう!」
癇癪のように言い放ったら、我慢していた涙が滝のように流れ落ちた。
「なんでっ、覚えてないってっ、そんなこと……っ」
こんなことはまったく想定していなかった。
クラウスがアルスを忘れてしまっているなんて、そんなことは微塵も考えたことがなかった。
だから、まったく心構えがなく、心の柔らかな部分に刃を突き立てられたような苦しさだった。
「アルスぅ、泣かないでよ」
ナハティガルは狼狽えているが、泣くなとは無理な注文だ。
これに一番困ったのはラザファムだったかもしれない。アルスのそばに膝を突くと、困惑しきった顔をして問いかけてくる。
「思わぬところでクラウスと会うことになりましたが、彼はすでにノルデンにはいないようです。このまま北上を続けても意味がないのでしょう」
クラウスはノルデンよりも北へ進み、国境を越えて魔の国へと足を踏み入れたのか。
今のが今生の別れとなるのだろうか。そんなのはあんまりだ。
やり場のない感情を持て余し、アルスは涙を零しながらもラザファムをなじっていた。
「お前が、邪魔をする、から……っ」
少しもラザファムのせいなどではないことくらい、アルスにだってわかっている。
優しいラザファムが受け止めてくれると甘えているに過ぎなかった。
「……すみませんでした」
怒ってもいいのに、とても悲しい顔をされた。
つらいのはアルスばかりではない。ラザファムにとってもクラウスは親友なのだから。
馬鹿なことを言ってしまった。
謝ろうと思うのに、声が詰まって何も話せなくなった。
ただしゃくり上げるアルスに、ラザファムの声はひたすら労わるような響きだった。
「本来でしたらヴァイゼの町まで引き返すところですが、先ほどの連中がいることを思うと、すぐに戻るのも考えものです。ここでじっとしているわけにも行きませんから、一度ローベ村へ落ち着きましょう」
ラザファムはアルスに手を伸ばし、半ば抱き締めるようにして立たせた。ラザファムも震えていたように思う。
「僕は」
それは小さな声だった。
「僕は、アルス様が望むのならいつまでもおそばにおります」
――落ち着いて。心を静めて。
そう思っても、今は何ひとつ冷静には考えられていなかった。