10◆グロリア
――断りを入れたとしても、それで先方が諦めてくれるとは限らない。
早朝には出立しようと思っていたのに、その早朝、甲高い声が宿の中から聞こえてきたのだ。
「サンドロ、本当にこんなところに泊っているというのですか? 彼は貴族ですのよ」
窓ガラスを震わせるような高音。部屋で身支度を整えていたアルスはナハティガルと顔を見合わせた。
「来たよ? どーすんのさ」
「どうと言われてもなぁ」
まさかグロリア当人が出張ってくるとは思わなかった。本当にどうしたらいいのだろう。
顔を合わせない方がいいことだけは間違いなくわかっている。
「とりあえず、部屋から出ないで様子を見るか」
「そぉねぇ。それがいいかもねぇ」
というわけで、アルスは大人しく部屋に籠って待つことにした。
この場合、ラザファムが単独で頑張って追い返してくれるのを心で応援するしかないのだが。
ため息が零れる。急いでいるのに。
そんなアルスの気持ちなど知らず、グロリアはヒールの踵を鳴らして階段を上がってきた。ラザファムの部屋を確かめたのか、迷いなく扉をノックしていた。
「ごきげんよう、ラザファム様。わたくし、グロリア・ニーダーベルガーです。こちらにおいでと伺って、ご挨拶に参りましたの」
ナハティガルに言わせるとツンとしているグロリアにしては猫なで声だった。案外本気でラザファムのことが気に入っているのかもしれない。
ラザファムはこのまま無視するといつまでも宿から出られないことを覚ったか、扉を開けたようだ。蝶番の軋む音がする。
「……ご無沙汰しております。ただ、今は急ぎの旅の途中ですので、不義理ではございますがご挨拶は控えさせて頂きたく存じます。それでは、もう出立致しますので」
この硬い口調から察するに、多分にこりともしていない。非常に素っ気ないが、仕方がないだろう。
ただし、グロリアはそれくらいでは引かない。
「そうは仰いますけれど、あなたはいつでも忙しいと仰って時間を空けてくださいません。それに魔獣が出没した今、わたくしも不安なのです。あなたがいてくださったらどんなに心強いか」
「この町には堅牢な外郭があります。それに公爵家のお抱えの私兵もいるはずです。シュミッツ砦に援軍を要請することもできるでしょう。ここにいれば小さな村とは比べ物にならないほど安全です。ユング村でも魔族に農作物を食い荒らされる被害がありましたが、あの村もニーダーベルガー公の管理下では?」
責任という意味では頂点に立つのは女王である姉だが、その間には領地を治める貴族がいて、その下に村長がいる。
小さな村だから、ニーダーベルガー公はユング村をあまり顧みていないのかもしれない。
そうなると、ユング村の現状の報告は上がりにくい。各地を視察している観察使もいるのだが、公爵家が相手となると権力に呑まれないで正直に報告するのは難しいのだろうか。
忙しい姉が直に各地を視察するのは今の段階では無理だ。
そうなると、今回アルスが旅に出て見聞きしたことはとても重要な意味を持つという気がした。
ユング村の被害など、グロリアにとってはどうでもいいことだったらしい。心を痛めているというような言葉はなかった。
「まあ、どうしてそう意地悪を仰るの? わたくしはあなたにいてほしいとお願いしているだけですのに」
「すみません、それは無理なことですから」
ラザファムは辛抱強く淡々と返している。
すると、ナハティガルがアルスの耳元でこっそりつぶやく。
「長引きそぉお」
それは困るのだが、大人しく待っているしかない。
そのまま成り行きに任せていると、グロリアが明らかに機嫌を損ねた声で言った。
「連れの女がいると聞きましたが、本当ですか?」
雲行きが怪しくなってきた。
これに対し、ラザファムは答えない。そうしたら、グロリアは勝手に続けた。
「銀髪の女だそうですね。その女はどこの誰ですか?」
――非常にマズい話の流れである。
ラザファムはどんな表情でこれを聞いているのだろう。
「仕事仲間ですか? 銀髪だなんて、まるでアルステーデ姫様みたいではありませんか」
ギクリ、とアルスが部屋で身を縮めていると、ラザファムの苛立った声がした。
「姫様がこんなところにいるとお思いですか?」
「アルステーデ姫様ならば絶対にあり得ないとは思いませんわ。何せ奔放なお方ですから」
大正解だが、当ててほしくもない。
ラザファムの苛立ち以上に、グロリアが徐々に感情的になってきたのが声でわかる。
「あなたはわたくしの誘いは断っても、アルステーデ姫様のお誘いなら断らないのでしょう?」
「そろそろいい加減にしてください」
「まあ! 女性に向かってそんなふうに言うことはないでしょうっ? わたくしはただ、あなたのことを――」
「本当にすみませんが、僕から言えるのは僕があなたに対してできることは何もないという、それだけです」
かなりキッパリと言った。なんだか聞いていて苦しくなってくる。
グロリアがこんなに食い下がるほどにラザファムのことが好きだとは知らなかった。それがこんなにも冷たい対応をされたら、さすがに傷つく。
ラザファムは急いでいる――というより、アルスが一緒にいることを知られるわけには行かなくて普段以上にきつい物言いになっているのだろう。
しかし、これではいつまで経っても終わらない。
アルスははぁ、と嘆息して荷物を担いだ。
そして、部屋の扉を開ける。すると、廊下に出てすぐのところにグロリアとサンドロが立っていた。
サンドロは昨日と同じ出で立ちで、グロリアは眩しいばかりの黄色のドレスだった。彼女の榛色の髪にはよく似合っているが、目立つ。
ラザファムはアルスが出てきたのでギョッとして固まっていた。グロリアもしばらく静止していたが、手にしていた扇を口元に添えて目を見開いた。
「ア、アルステーデ姫様……」
やっぱり知人にはすぐに見破られた。アルスは軽く首を振る。
「すまないが、ラザファムは今回私の用事に同行している。急いでいるのも本当だ。またの機会にしてくれ」
ラザファムは朝から疲れたとでも言いたげな目を伏せた。
けれど残念ながら、あのまま待っていたら引き上げてくれそうになかった。間違いなく日が暮れた。
「ひ、姫様がこんな安宿で一体何をされておられたのでしょう?」
「ここは宿だから、寝泊まりだな」
「どうしてラザファム様と……」
グロリアの顔が蒼白になってきた。見ていて可哀想になる。
「私が頼んだわけじゃない。ベル兄様がつけて寄越したせいだ。悪いが、もう行かせてもらう」
アルスが断って廊下を行くと、ナハティガルはアルスの肩にちょんと収まり、ラザファムは荷物を持ってついてきた。
階段を下りる前に一度だけ振り向くと、グロリアは扇で顔の半分を覆っていたが、涙目でキッとこちらを睨んでいた。恨みを買いたくはないけれど、恨まれたと思われる。
階段を下りる際、ラザファムがポツリと言った。
「どうして出てきたりするんですか」
「話が終わらないからだ」
「……これから彼女が、あなたにとって良くない存在になったらどうするんですか」
ラザファムの声はアルスを心配する響きがあった。
グロリアは公爵家の令嬢なのだから、王族には敵わずとも当然それなりの力はある。何かにつけてニーダーベルガー家が王族にとっての弊害にならないとも限らない。ラザファムはそんな心配までしているらしい。
アルスはラザファムの方を振り向き、笑ってみせた。
「それは女同士の喧嘩として受けて立つしかないな。大丈夫、私の方が腕っぷしは強い」
家同士の争いではなく、個人の間の揉め事に収める。グロリアは結局のところまだまだ子供なのだ。
ラザファムはアルスの笑顔と言い分に、少し困ったようにして笑い返した。
「腕っぷしはやめてください。姫と令嬢の喧嘩なんて前代未聞です」
「その発想がすでにお姫様じゃないけどねぇ」
と、ナハティガルはアルスの頬に頭をぐりぐり擦りつけながら言った。
実際のところ、グロリアは本当に子供で、だから自分の感情のままに動いてしまう。それをした後のことまでは考えられない。
そしてそれは、アルスが思っていたよりも一段低いレベルであったと後に知るのだった。