8◆トルナリガ
クラウスはピゼンデル共和国にて情報を集める。
この国は、二十年前のレクラム侵攻を過去の汚点として闇に葬りたいようだった。
とはいえ、たかだか二十年だ。未だ生々しく傷跡は残っている。
十年前のクーデター以前は軍事関係者に箝口令を敷いていたようだが、今となってはその限りではない。ただし、国の重鎮たちはクーデターの際に王と命運を共にした者が多い。それ故に情報も憶測や噂が入り混じり、何が本当なのか真偽を確かめるのが困難だ。
結局、侵略に踏み切った動機については不鮮明なままだ。ほぼ王の独断と言えるが、その王がすでに亡いのだから。
レクラム王国が魔に染まったとのたまっていたというが、そんなはずはない。それこそ魔に染まったクラウスだからこそそれがわかる。
動機などどうでもよく、ただレクラム王国を欲したが故の愚行だったということか。
現在のピゼンデル共和国としては、どうあってもレムクール王国との関係を回復しなければならない。レクラム王族唯一の生き残りであるベルノルトが王配に収まってしまったのだから、いつレムクール王国がレクラムの所有権を主張してこないとも限らないと考えている。
そうなった時、レムクール王国と全面的に争うことになればピゼンデル共和国にまず勝ち目はない。だからといって、容易く譲り渡してしまえばそれこそピゼンデル共和国の手札は失われ、交渉の余地がなくなる。
結局のところ、ベルノルトを国外から出したところでレクラム侵攻という汚点が消えるわけではなかった。余計に事態を複雑にした。
ピゼンデルは愛玩奴隷として扱われていたベルノルトに人並みの能力を認めなかった。それというのも、ベルノルトはピゼンデルにいる間、ろくに言葉を発さなかったからだという。
彼は脅威たり得ない、奴隷でしかない、と。
ピゼンデル最後の王は、ベルノルトを愛玩動物のように低く見積もった。そして、解放の英雄である初代大統領でさえ、ベルノルトと当時のレムクール王を見誤った。王族は皆、亡国の王族を籠の鳥として弄ぶ人種だと。
まさか第一王女が自らの伴侶に選ぶとは考えなかったらしい。
何もかもが愚かしく思えるこの国で、それでもクラウスは何か火種を撒くようなことをしたいとは思えなかった。
当時ならばまだしも、今、この国は生まれ変わろうとしている。民は生きようと必死だ。それは認めなくてはならないところだった。
「トルナリガ大統領、少し顔色が優れないのでは?」
それは、ピゼンデル共和国三代目大統領デトレフ・トルナリガを初めて見た日のことだった。
国の代表者ともなれば、会合や視察、会議、多忙を極める。この時も馬車に乗り込む直前だった。
骨太で体格の良い男性ではあったが、側近に耳打ちされたように少し青白く見えた。クラウスはそれを闇から見ていたのだ。
トルナリガはそれでもニッと笑って見せた。
「光の加減だろう?」
疲れているとは言えない。それでも、休息が満足な様子ではなかった。
「……倒れてしまっては回復に時間がかかるだけですよ」
そんな苦言を、小言を食らった子供のように顔をしかめてやり過ごす。
「しかし、私にはやるべきことが多くある。レムクール王国との関係がこのままでは、いずれ本当の世界の危機が来た時に国を護りきれない」
「反対派の声に民が不安になっているのも事実ですが、だからこそ――」
「わかっている。さあ、時間がない。もう行こう」
デトレフ・トリナルガは、王政であった頃に数多くの宰相を輩出した名家の人間らしい。しかし、だからといって偉ぶるわけではなく、市民の声に耳を傾ける謙虚さもある。
過激思想の反対派からすれば、それが軟弱ということらしい。もっと強固な姿勢でへりくだることなく諸外国と渡り合えと。
つまり、先の侵略を落ち度として認めるなと。あれはあくまでレクラム側に非があったのだと押し通す外交を行うべきだと。
しかし、もしそんなことをしたのなら、それこそ和解などあり得ない。それをトリナルガは理解している。
だからこそ、最良の落としどころを探して奔走していた。
「……クラウス様」
耳元で声がしてクラウスはハッと我に返った。
シュランゲが何を言いたいのかはわかっている。
ここでクラウスは何をすべきなのだろう。ただ、何もしたくないと思っていることを見透かされている。
アルスと出会う前の自分なら、多分ループレヒトと同じほどに感情を交えずにいられた。そんなふうに育っていたはずだ。
今、ここでいちいち余計なことを考えてしまうのは、自分の中には常にアルスがいて、アルスならばどう感じるかというふうな思考の癖が抜けないからだ。
「その反対派とやらのことをもう少し知りたいな」
そうつぶやいてみたものの、それはその場しのぎに過ぎなかったのかもしれない。