7◆危険
ルプラト峠やユング村にも魔族が出た。しかしそれは蟲で、獣となるともっと手強い。
ラザファムは表情を硬くし、問いかける。
「この町の中に侵入したのか? どんな獣だった?」
「出たのはもう少し北東の方です。シュミッツ砦からこちらに向かう途中だった兵士の数名が遭遇し、追い払うことはできたものの負傷してこの町に運ばれてきたんです。聞く限りでは狼のようでいて、普通の狼よりもかなり大きく、剣ではほとんど傷つけることもできなかったと聞いています」
魔族の蟲の体も硬かった。獣であっても刃物を通さない、針金のような毛並みをしているようだ。
アルスは、あの日の人型の魔族を抜きにすれば、魔族を目にしたことはほぼなかった。魔獣となると話に聞くばかりだが、特徴は常に同じで、とにかく攻撃が効きにくいという。
魔族には物理攻撃よりも精霊の力の方が有効だが、精霊術師は少ない。優秀な祓魔師も同じく。
「その兵士の具合は?」
「一命は取り留めましたが、重症には変わりありません」
それを聞き、アルスも胸を痛めた。剣術が好きなアルスは小さい頃から兵士たちとはよく関わってきたのだ。
アルスが黙り込んでいると、ラザファムはアルスを気にしつつも番兵に神妙な顔を向けた。
「これが民間人だったらひとたまりもない。魔族と遭遇して生き延びられたのは日々の鍛錬の賜物だろう。とはいえ、痛ましい限りだ」
「ええ。町中が騒ぎになりますので、本当はまだ情報が伏せられているんですけど、あなたにはお伝えした方がよいかと……。たまたま滞在中だったセイファート教団の方は、魔族と聞くなり町を出ていってしまいましたけど」
それを言った番兵の表情は苦々しかった。
協力を願いたくて知らせたのに、その途端に逃げ出したのだとしたら無理もない。その教団員が祓魔の術を何も使えなかったとしても、人々の心を落ち着けるために尽力してほしかった。
「精霊術師様には余計なことかもしれませんが、こんな時ですから、どうぞお気をつけください」
「ありがとう」
番兵はラザファムに対し、丁重に敬意を示してくれた。
多分、あの暴走馬車がそれだったのだろう。魔獣が出たから慌てていたのだ。
アルスは町の中に踏み入りつつも、負傷者のことを考えて気分が落ち込んだ。
門を潜り、影から光の方へと抜ける。こんなふうに、すべての悩みがパッと晴れる瞬間があればいいのにと思うけれど、そんなふうにはならない。
久しぶりのヴァイゼの町は、それでも豊かで先進的だった。
道行く人々は洒落込んでいて、商店のショーウインドーには煌びやかな品々が飾られている。露店にも果物や野菜が盛られているけれど、その分警備の数も多く、蟲たちにとっては小さな村の方が襲いやすかったのかもしれない。
「とりあえず、宿を取りましょう」
ラザファムが振り向きざまに言った。アルスはぬいぐるみ設定のナハティガルを抱き締めてうなずく。
「そうだな」
「あまり高級なところはやめておきます。そういうところほど領主館に近いですし」
「うん」
口数が少なくなって考え込むアルスをラザファムが見遣る。
「……北へ近づくほどに魔族との遭遇率は上がります。それでもノルデンへは行くのですね?」
その言葉に、アルスはハッとして顔を上げた。ラザファムは険しいというよりは気づかわしげな面持ちだった。
「厳しい鍛錬を怠らない兵士ですら無事では済まないような魔獣が出るんです。ナハたち精霊が力を貸してくれますが、それでもまったく危険がないとは言えません。僕は、正直に言っても許されるのなら、あなたがノルデン行を諦めてくださったらと今でも思っています」
「それは……っ」
「わかっています。あなたが諦める気なんてないことくらいは。それでも、あなたの無事を願っている人が多いことも本当ですから」
アルスは何も言い返せなかった。ラザファムの言い分は正しい。
この先、無理をして北へ進んで、アルスにもし何かあったら、姉やパウリーゼ、ベルノルトを悲しませてしまう。そして、その時にはナハティガルやラザファムまで巻き添えにしているのだ。
それは嫌だと思うのに、頭ではわかっているのに、行かないと言えない。
すべてとクラウスを引き換えにするようなことを言えない。そうしたら、クラウスにはまったく救いがないのだから。
この時、ぬいぐるみのフリをやめたナハティガルがアルスの肩に乗り、こめかみの辺りにグサッとくちばしで一撃を食らわせた。痛い。
人通りがあるので喋らないけれど、アルスが暗い顔をしているのが嫌なのだろう。
――ここへ来て悩んでも今更だ。
アルスは深く息を吸うと言った。
「ごめんな。本当に、私と友達になったばっかりにお前には苦労をかける」
「だからあなたには、僕とクラウスしか友達がいなかったんでしょう。淑やかなご令嬢ではとてもついていけませんから」
そこでナハティガルがププッと噴き出した。ひどい。
目を見開いているアルスに、ラザファムはそっと笑った。
「僕の友達も、クラウスとアルス様だけですけどね」
「本当だな」
また三人でいられたらどんなにいいだろう。
アルスも萎みそうになった心を鼓舞するように声を立てて笑った。