3◆好み
アルスの脚が太くなるとしても、歩かないわけには行かない。
――いや、決して気にしているわけではない。あんなのは冗談だから。
とりあえず、ユング村で一泊してヴァイゼの町に向けて出発する予定だ。
宿では風呂も使わせてもらい、しっかりと汗や汚れを落とせてすっきりした。
そして、農作物の被害があったというのに、宿の女将は気前よくアルスたちに料理を振舞ってくれた。ありがたくて、少し申し訳ないような気分にもなる。
「このご時世だから、旅をするならしっかり食べないとね」
「ありがとう。とても美味しい」
申し訳ないと思いつつも出された料理を片っ端からもりもり食べているアルスに、人の好さげな女将は言った。
「お嬢ちゃん、綺麗な食べ方だね。育ちがいいのがわかるよ」
そんなことを言うから、パンで喉を詰めそうになった。育ちだけは抜群にいいはずである。
アルスの狼狽ぶりを向かいの席から心配そうに見ていたラザファムにも女将は言う。
「あんたもちゃんと食べて。じゃないと恋人のことを護れないよ」
ラザファムまで飲んでいた水を吹きそうになった。
それでも女将はニコニコしている。
「根掘り葉掘り訊くつもりはないけどさ、若いっていいねぇ。お似合いだねぇ」
アルスの座っている背もたれに停まっているナハティガルが、笑いを噛み殺しているらしき気配があった。
「い、いや。それは違う。私たちは人を訪ねに行くところなんだ。それは私の婚約者で、彼はその友人だ」
「あらそうなの?」
うんうん、とアルスは何度も大きくうなずく。
変な誤解をされてしまってはラザファムにも悪い。
女将は残念そうにテーブルから離れていった。一体どんな話が聞けると思っていたのだろうか。残念そうだ。
アルスはため息をつくとラザファムに目を向けた。今のところ怒っているふうではない。
「ごめんな」
とりあえず謝ったら、ラザファムが妙にギクリとした。
「……どういう意味ですか?」
「どうって、誤解されて嫌だったかなって」
ラザファムは、ああ、とだけつぶやいた。そうしてまた食事を再開する。
「別に。男女の二人旅で誤解するなという方が無理でしょう」
とても淡々とした硬い声だった。別にと言うわりには嬉しくもなかったようだ。
「なあ、ラザファム」
「なんですか?」
「ラザファムの好みの女の子ってどんな感じだ?」
その途端、今度は水を吹きそうどころではなく、飲んでいたスープでむせた。
「なっ、なんですか、急に!」
ごほごほと苦しそうにしている。
「いや、私みたいなのの恋人に間違われて不愉快なら、どういう子がいいんだろうって」
「不愉快なんて言ってません」
「そうかぁ?」
首を傾げていると、ナハティガルがぽよんと飛び上がってラザファムの肩に移動した。
「それくらいにしなよ、アルス。ラザファム可哀想」
「何が?」
「アルスのぉ、そおいうところがねぇ」
ナハティガルはアルスの守護精霊のくせにやたらとラザファムの肩を持つ。けれど、何かを言いかけたナハティガルをラザファムが手で制した。
「ナハ、いいから。ありがとう」
「いいのぉ?」
「うん」
何故かナハティガルはラザファムの頭を羽でよしよしと撫でた。なんだろう、アルスが苛めたみたいに。納得が行かない。
ユング村の宿の女将は、送り出す時に手料理を色々と持たせてくれた。支払った額よりも多く持たせてくれたのではないかと思えた。助かるけれど、この村での暮らしも楽なものではないのだから、いいのだろうかという気にはなる。
そう思うのなら、この旅を終えて城に帰った後で受けた恩に報いる何かを探したらいいのか。
もしかすると、その方がいいのかもしれない。そう考えて厚意は受けることにした。
「ヴァイゼも久しぶりだ。前に来たのは三、四年くらい前かな」
アルスが思い出を探りながらつぶやいた。
「アルス、二年間わりと引き籠りしてたもんね」
肩でナハティガルがそんなことを言う。これにはアルスにも言い分があった。
「父様が亡くなって、国王の代替わりもあった。落ち着かない状況だったんだ。そんな中で姉様は忙しかったけれど、私には無理せず公務を休んでもいいと言ってくれていた。だから私は心置きなく休むことにしたんだが」
「うんうん。その引き籠り期間さ、侍女の人たちはアルスに振り回されて疲労困憊だったよね」
「……それに関しては悪かったと思っている」
そこで黙って聞いていたラザファムが、恐る恐るといった具合に訊ねてきた。
「一体何をしでかしたんです?」
「しでかしたとは失礼だな。私はあの時すでに一人旅に出ることを決意していたから、そのために――これからは自分の身の回りのことは自分ですると言っただけだ」
何故かこの瞬間、ラザファムが妙に同情的な目をした。その対象は多分、アルスではなく侍女たちだ。
ナハティガルはアルスの肩の上でぽよよん、と弾んでいたかと思うと、頭の上に乗って、それからラザファムの肩へと移動した。
「ひどいモンだったよ。アルスは浴室の床とかびっちゃびちゃにするし、服は上手く着られなくて破るし、仕事増えてたねぇ」
「……だから、それに関しては悪かったって」
自分が必死なあまり、侍女たちの仕事を増やしていることにすら気づいていなかった。絹地の服が繊細で破れやすいのも、着させてもらっているうちは知らなかった。
「でも、皆、アルスに意見できないんだよね。なんて言っても、カワイソウな御姫様だったから」
アルスは何も諦めていなかったのに、周りがそれをわかっていなかった。
婚約者に不幸があった可哀想な姫君が奇行に走っても、塞いで泣かれるよりはよかったのだろう。
ハハ、とあの時のことを思い出して乾いた笑いを零す。
「パウに叱られたな。今までできなかったことが急にできるようにはならないんだって」
パウリーゼは、幼い妹だと思っていると、時々大人びたことを言う。
いつも無邪気に振舞っていても根っこは王族で、アルスよりもそれを自覚しているのかもしれない。
ラザファムもうなずいていた。
「そうですね、パウリーゼ様には僕も時々叱られます」
「パウリーゼ様はオマセさんだからねぇ」
妹も、こんな遠く離れたところで噂をされているとは思わないだろう。今頃くしゃみをして、昼寝中のアードラがびっくりして飛び起きているかもしれないと思ったら、アルスも少し可笑しかった。
近いうちに会えたら、アルス姉様は無謀だと、またあの可愛い声で叱られるかもしれない。