20◆帝都ツェントルム
時は少し遡り、アルスたちがペイフェール川を渡っている頃――。
レプシウス帝国、帝都ツェントルムにて。
皇帝ディートリヒは腹心のヴィリバルトと宮殿へと向かう馬車の中で向かい合っていた。ヴィリバルトは国内でも一、二を争う剣の使い手ではあるが、ディートリヒはそれに優るとも劣らない。
この時代、国を統べる男が文弱ではならないと幼少期から鍛錬は怠らなかった。隙を見せれば命を取られるような立場だと自覚もしていた。
だから付き合う人間もよく選んだ。ヴィリバルトは公爵家の嫡男で、ディートリヒの幼友達でもある存在だ。それ故に、他者を交えない時は互いに本音も口にする。
「レムクール王国も、あの女王だけでしたらもっと話は早く進むのですが、夫君がレクラム王朝の末裔となるとどこまでもややこしいことになりますね」
ヴィリバルトもレムクール王国国王夫妻との会談の場に控えていた。女王トルデリーゼの夫君、ベルノルトについて思うところもあるようだ。
「まあな。祖国を滅ぼされ、奴隷に落とされたまま十年だ。ピゼンデルへの憎しみを忘れた日はないだろう」
仮に自分がベルノルトの立場だったとしたら、恨むなどという生易しいものではなく、自由の身になった際には確実にピゼンデルを滅ぼしてやっただろう。この手で間違いなく。
そう考えたら、ベルノルトはまだ温厚だ。もしかすると、それをしないでいられたのは、あの優しすぎる女王の影響かもしれないが。
「しかし、現状でピゼンデルの協力なくして魔の国を抑えることはできません」
ピゼンデル共和国の大統領デトレフ・トルナリガは、今回の二国間の会談に期待を寄せていた。
レムクール王国との和平を望んでいて、その橋渡しをレプシウス帝国に期待していたのだ。
トルナリガは穏健派で、過去のレクラム侵略とは無縁なはずの人物である。ピゼンデルの王族ですらない。民間からの叩き上げの指導者だ。
しかし、だからといってベルノルトが友好的な態度を示すとは思えない。和平は、今の女王の代では難しいと言えるだろう。もしかすると、次の代でもまだ無理かもしれない。
「トルナリガの失脚を狙う手合いもいるようだから、レムクールとの関係は繊細すぎる問題だ。身動き取れないというのが本音だろう」
「だからこそ、我が国としてはピゼンデルに恩を売っておきたいものですが」
「そう簡単なことではないな」
ディートリヒとしてもピゼンデルとの関係は今後重要になってくるのを十分にわかっている。魔族の勢いが増せば尚のこと。
ヴィリバルトは武人だが、武力だけに優れ頭が空っぽというわけではない。切れ者だからこそ、長くそばに置いている。
自身の身内に不運が続いた時でさえ、ヴィリバルトは取り乱すことなく淡々といつもと変わりなく勤めていた。そんなヴィリヴァルトを冷淡だと言う者も多いが、ディートリヒは情け深いだけの愚か者に用はない。
「それにしても、アルステーデ姫にはお会いできませんでしたが、斥候がつかんだ情報は本当でしょうか?」
ヴィリバルトが思案しながらつぶやいた。
「アルステーデが城にいないというヤツか?」
「ええ。二年前、アルステーデ姫様は当時の婚約者だった少年と突然婚約を破棄しました。そのことが関わっているのでしょうか」
アルステーデの婚約者にディートリヒが直接会ったことはない。ただ、噂によればかなり優秀な人材であったとのことだ。そして、二人は仲睦まじかったと。
「あのお転婆姫が傷心のあまり静養している――なんてことは考えにくいが。前に会った時は落ち込んだ様子もなかった」
ディートリヒの知るアルステーデは、くよくよと落ち込むような少女ではない。いつも溌溂と、言いたいことを言い、元気に屋外で飛び跳ねていた。
婚約破棄した後のアルステーデとも顔を合わせたが、弱っているという印象は受けなかった。むしろ強い目をしてしっかりと立っていた。
あれは国王の、アルステーデたちの父王の葬儀の場であった。嘆き悲しむ姉姫と妹姫よりも一番落ち着いて見えたものだ。
婚約者といっても、あの姫のことなら男女間の愛情までには至っていなかったと思われる。
「姫の心情はこの際どうであろうといいのです。問題は、そこにつけ入る者が出ないかということでしょう」
「レムクール王国の王族には守護精霊がついている。そう容易く攫われたりはしないだろう」
「だといいのですが」
ヴィリバルトがその先の言葉を呑み込んだのがわかった。ディートリヒもそれくらいのことはわかっている。
守護精霊も万能ではない。そして、このまま時を無為に過ごすとなると、精霊王の力は弱まる。世界の均衡が崩れる。
それを一番に察するのはベルノルトかと思ったが、そうではないらしい。彼はまだ気づいていないようだった。
「とにかく、ベルノルト様に関しましては、このままでは平行線です。陛下が切り札をお使いにならない限りは」
ヴィリバルトは結論を急ぎたがる。その心もわからないではないが――。
「それはな。ただ、どう転ぶか読めないうちは使うわけにいかん」
「慎重になってしまわれるのも無理はございませんが……」
確実なことよりも、不確実なことの方がこの世には多いのだ。
どの程度の危険があるのか、今のディートリヒには計りかねた。所詮自分もただの人間だと、こんな時には思う。
ただし、それを死んでも口にするつもりはないけれど。
「さて、これからセイファート教団司教との会合か。あそこは女っ気がなさすぎて目の保養にもならん」
「後宮を抱える皇帝陛下が何を仰いますのやら」
「歴代皇帝に比べたら慎ましやかなものだろう?」
笑いかけてやると、ヴィリバルトも笑った。
好色は血筋ですね、と顔に書いてある。
「今日も公務を終えたら、ローザリンデ様とアストリッド様がお待ちですよ」
その名を出せばディートリヒが黙ると思っている。腹が立つことに、それは的外れではないのだが。