17◆お守り
この大きな木の名前は知らないが、幹はツルツルしていて手触りがよかった。地面に伸びている根に座ると丁度いい椅子になる。
アルスが木の根に座って伸びをすると、ラザファムはやっと諦めたようだった。渋々やってくる。
「イービス、魔族の気配は?」
ラザファムが空に呼びかける。すべてを討ち取ったわけではないから、寝込みを襲われないか気になるらしい。
鳶の姿のイービスは空から降りてきて一番低い枝に停まった。
「北へ飛び去った。この辺りにはおらぬ」
「わかった。ありがとう」
諦めたら、ラザファムはテキパキと支度を始めた。
荷物からブランケットや小型の鍋まで出してくる。あんなに色々と道具を持っていたとは知らなかった。
その鍋に水筒に入っていた水を入れた。鍋に入れるということは沸かすのだろう。
「ナハ、火を熾してくれ」
「へーい」
この場合、火を保つための薪は要らない。精霊の火は光と同じようなもので、ただそこにある。
ポッと拳くらいの火の塊が宙に現れた。小さすぎやしないか。
ラザファムは笑いを噛み殺しつつ、その火に鍋を当てた。何をしたいのかと思ったら、その湯で茶を淹れてくれた。水筒の蓋に黄緑色の水色の茶を注ぎ、アルスに手渡す。
「熱いので気をつけてください」
「ありがとう」
ハーブの爽やかな芳香がする。両手で包み込み、ひと口飲んだら妙に落ち着いた。アルスが茶を飲んでいる間も、ラザファムはまだナハティガルと一緒に何かを作っていた。――ナハティガルは横で火を調節していただけだが。
「干し肉とチーズを炙って挟んだだけですが、どうぞ」
そう言って、ラザファムは日持ちのするパンで具材を挟んだものを差し出す。アルスは思わず首を傾げたくなった。
「ラザファムは貴族なのになんでこんなに手慣れてるんだ?」
「兵士たちは皆、こういう訓練は受けていますよ。僕は兵士ではありませんが、もし戦になったら同行することも考えられます。知っておいて損はない知識ですから、自発的に学びました」
勤勉なラザファムらしい。アルスはラザファムお手製の夕食を食べた。アルスが食べている間に、ラザファムは木の周りを調べて回っていた。
二周して戻ってきたラザファムはアルスが座る根っこの向こう側に腰かける。
「害虫の類は問題なさそうです。これほどの大木なら内部が腐っていることもありますが、その心配もありませんでした」
何から何まで気のつく男だと思う。アルスは最後のひと切れを呑み込むと、思ったことを口にした。
「ラザファム、お前っていつも自分のことは後回しだな」
「えっ?」
それを指摘された途端、ラザファムは顔を強張らせた。そんなことを言われるとは思ってもみなかったとばかりに。
「いや、お前だって疲れてるのに、私の世話ばっかり焼いてさ。今の私は王族として振る舞っているつもりはないし、お前を家臣だとも思っていない。対等でいいんだ」
「そういうわけには行きません」
「そう言うとは思ったけどな。損な性格だな」
思わず苦笑してしまった。
「急には変われませんから」
「それが悪いというわけではないが。お前が苦しくなければな」
いつでも自分を優先できないで人のことばかり思い遣る。そんな性分のラザファムが時折心配にはなるのだ。
我慢ばかりして、いつも自分を殺しているのではないのかと。
そして、そんなラザファムにアルスが甘えてしまっているのも事実だった。
「僕はしたいようにしているだけですよ」
穏やかな表情でそれを言った。それならばいいのだろうか。
「そうか。いつもありがとう」
アルスには感謝を伝えることくらいしかできなかったけれど。
「いいえ――」
アルスはナハティガルが熾している火のあたたかさのためか、疲れのせいか、木の根のくぼみに丁度よく収まって寝息を立てていた。ラザファムはアルスが落としたブランケットをそっとかけ直した。
平和な寝顔だった。本来ならアルスの寝顔なんて拝むことはなかったはずなのに。
「アルスってばぁ、また寝跡ついちゃう」
ナハティガルが呆れてぼやくけれど、ラザファムは人差し指を立てて言った。
「ナハ、アルス様が起きるから静かに」
「大丈夫だよ。アルスはこれくらいで起きないしぃ」
そんなことを言って、ナハティガルはアルスの頭の上でポンポンと飛び跳ねたが、本当に起きなかった。思わず笑いそうになったが、堪える。
ラザファムも木の根に寄りかかって体を預けた。ひやりとするが、それも最初だけで徐々に馴染んだ。すると、ナハティガルがラザファムに話しかける。
「ねーぇ、ラザファム。クラウスってどうしてると思う?」
話し相手であるラザファムを寝かさない戦略なのだろうか。ドキリとするような話題に触れる。
「……クラウスは、ノルデンでも何か自分のやるべきことを見つけていると思う」
クラウスはそういう人間だ。無気力にただ生きているということはない。
「そうだねぇ。ボク、ヒトの浄化ってあの赤ちゃんで初めてやったんだよ。あれ、赤ちゃんだからできたんだ。赤ちゃんはまっさらだからね」
「うん……」
ナハティガルが何を心配するのか、ラザファムにはよくわかった。その先を言わなくてもいいとさえ思う。
それでもナハティガルは言葉にした。
「魔に染まったっていうクラウスをさ、皆が受け入れてくれないと」
もしアルスがクラウスを連れ帰ったとしたら、周囲の人々はどうするのだろうか。心までも染まりきっていないのならばいいと言ってくれるだろうか。
それがとても難しいことをアルスは認めたがらない。
現に、女王が奴隷であったベルノルトと結婚する際にも反対の声は上がったのだ。奴隷とはいえ、ベルノルトは元々レクラムの王族だったというのに、それでも。
「先のことを考えすぎると動けなくなってしまう。でも、それじゃあ駄目なんだ」
国民感情がクラウスを受け入れられない。
そんな理由ではアルスが納得しない。
アルスの心は何よりも大事で、優先されるべきものだ。
少なくともラザファムにとっては。
ポケットから〈お守り〉の入った銀のケースを取り出す。そっと慎重に開けると、そこには小さな紙切れが一枚だけ入っていた。
白百合に金箔のシルエット。
それは、第二王女の誕生記念切手――。