12◆蟲
峠を登るにつれ、アルスも違和感を覚えるようになった。
目に見えておかしい。生えている木が無残な姿になっていたのだ。木が食い荒らされたと言うべきか、幹は剥がれ、枝は折れ、かろうじてそこに立っている。
「あれは――」
アルスがズタズタになっている木を指さした時、イービスがラザファムの肩から飛び立った。そして、空を旋回すると舞い戻る。
「蟲だ」
「えっ?」
「蟲の大群が来る」
イービスの声には苦々しさがある。ラザファムは眉根を寄せた。
「追い払えるか?」
「さてな」
と、イービスは覚悟を決めるように目を閉じた。
できると断言しなかった。いかに精霊とはいえ、単身では難しい数なのだろう。
ラザファムは険しい表情のまま低い声で再び訊ねる。
「すぐ近くまで来ているんだな?」
「然り」
それを聞くなり、ラザファムは自分が羽織っていたローブを脱ぎ、アルスに被せた。いきなりだったので、アルスはもがいてなんとか首を出した。そんなアルスにラザファムは素早く言い放つ。
「アルス様はそれを被って隅の方に避難していてください」
「い、いや、私だって多少剣を使えるし」
「いいから、早く」
「そんなこと言って、お前だって無防備じゃないか」
アルスにローブを譲ってしまって、それでどうするというのだろう。下に鎧を着ているわけでもなく、見るからに軽装だ。
「いいんですよ、僕は男ですから。多少の傷がついたって」
「顔に傷がついたら取り柄が減るぞ」
不安を隠しつつ減らず口を叩くと、ラザファムは少し笑った。
「じゃあ顔はなるべく庇います」
「でもっ」
「僕はあなたを護るためについて来たんです。だから、大人しく下がっていてください」
護るために。
アルスは自分がそんなに弱い存在であるつもりはなかった。
それでも、ラザファムに護られているのも本当だ。けれど、ただ護られているのは嫌だ。一緒に戦いたいのに、アルスが出張ることで気が散ると言われてしまいそうだ。
嫌だとしても、ナハティガルが眠ったままのアルスに何ができるだろう。
羽音が聞こえた。イービスが尾羽をピルルと振るう。
「来たようだ」
蟲と言われても、正直なところピンとは来ていなかった。
しかし、その蟲は無害ではないとすぐにわかった。
虫型の魔族だ。黒い甲冑のような胴に赤い目を持ち、翅は黒水晶のごとく透き通っている。口はせわしなく動いていいて蜂に似ているが、カラスほど大きい。
なんとも気持ちが悪かった。アルスは自分も戦えるつもりだったが、そんな蟲の群れに臆さずにはいられなかった。ただの人間が相手にするには分が悪い。
それでもラザファムは下がらなかった。荷物から何かを取り出し、手早く組み立てている。小型の弩に見えた。それを左腕に固定している。
蟲の羽音が、こちらを威嚇するように聞こえた。声など上げないはずが、羽音が声のようだ。
蟲たちは、あの木のように人間をも食い散らかすのかもしれない。
年々、魔族による被害が増えているという話は耳にしていた。それでも、アルスは自分の想いを優先して旅立った。
現実はそう優しいものではないらしい。クラウスに会いたいと、それを願うだけなのに。
王族だろうと、魔族が遠慮してくれることはなかった。
蟲たちは人と精霊を敵と見定め、口を大きく開けて近づいてきた。数は数えられないが、晴れた空に雲が差しかかったほどには薄暗くなった。
イービスは、大きな翼で羽ばたき、蟲を蹴散らすように飛んだ。魔族である蟲にとって精霊は天敵なのだろう。イービスを相手に怯んだように見えた。ラザファムは、イービスに翻弄される蟲を狙い、矢を放つ。短い矢だが、蟲の口に突き刺さると、目の赤い光が消えて峠の下へ墜落した。
――ラザファムはいつの間にあんなことができるようになっていたのだろう。
ある程度訓練しないことには的にも当てられないはずだ。いつの間にか成長し、アルスの知る幼馴染とは違っているのかもしれない。
峠は吐き気を催すような惨状だったが、ラザファムとイービスが戦っている時にそんなことは言っていられない。アルスはいつでも飛び出せるように右手を剣の柄に手を添え、左手で胃を押さえた。
その戦いが繰り広げられているうち、ラザファムは汗をかき、呼吸が上がっていた。随分疲れている。そして、矢も無尽蔵というわけには行かないだろう。いつ矢が尽きるかとハラハラした。
そして、そんな時。
「ふぁあああ。よっく寝たぁ~」
場違いなほどのん気な声がしたのである。