11◆ルプラト峠
ヤソンが言っていたように、この先には集落ではなく一軒の宿がポツリと建っていた。旅人にはありがたいし、辺鄙なところのようでいて繁盛しているのかもしれない。
部屋はふたつ取れた。今晩はラザファムもちゃんと休めるだろう、とアルスもほっとした。
〈川の恵み亭〉というその宿は、若い夫婦が営んでいるようだった。食事は、しっとりと焼き上げたパン、空豆と小海老のフリッター、シェパードパイ、カボチャのスープ、木の実和えなど。贅沢なものではないが十分美味しい。
ただ――。
「ラザファム、お前、カボチャ嫌いか?」
差し向かいの席で残されていたら誰でもわかる。ラザファムは気まずそうだった。
「……いえ、最後に頂きます」
「嫌いなら無理するな。私がもらう」
「アルス様はカボチャがお好きなんですか?」
「そうだな、それなりには」
「じゃあ、どうぞ」
と、ラザファムはスープをアルスの方へ押し出す。嫌いだとは絶対認めないが。
そんな子供のようなところが可笑しかった。
「うん、ヘチマよりは美味いぞ」
「なんですか、それは」
「いや、こっちの話だ」
この宿は追加料金を払うことで服の洗濯までしてくれるというから、本当に旅人にはありがたい。特にアルスたちのように濡れてばかりの旅人には。
あたたかい風呂にもゆったりと浸かり、峠越えを前に体は十分な休息を取れた。
翌朝、二人は朝食を取ると、洗濯を頼んでおいた服とランチボックスを受け取った。
ラザファムは外へ出るなり、朝の日差しを眩しそうに手で遮る。ラザファムが見上げたのは、この先にある峠だ。霊峰に登るよりはマシかという気はするが、楽ではなさそうだ。
「ルプラト峠は徒歩で越えるしか手段がありません。どうぞへこたれないように」
「しっかり休んだから平気だ」
アルスは胸を張って答えた。とはいえ、近づいて見るとルプラト峠は首が痛くなるほど高かった。これを越えるには一日で足りないのではないかと思われる。しかし、日を跨ぎたくはないので精々頑張るしかない。
「あれ? エンテは?」
姿が見えなかったので、また姿を変えてラザファムの服の下にでも潜っているのかと思ったら、ラザファムは首を振った。
「一度帰しました。あまり酷使しても悪いので」
「ああ、確かに」
ナハティガルの分までこき使ってしまった。エンテは張りきりすぎるところがあるので、このままだとまた疲弊していたかもしれない。ナハティガルのように昏々と眠るハメになる。
そうして、二人で峠に向けて歩き出した。
「今日はいい天気でよかった。峠で雨なんて降ったら最悪だしな」
「ええ、土砂崩れの心配もありますし。おかしなところを見つけても勝手に触らないようにお願いします」
またアルスが何かやらかすとでも言いたげだが、反論できないのが悲しいところだ。
ナハティガルなら、日頃の行いが悪いと言ってアルスのフォローなどしてくれないだろうけれど。
「わかってる!」
苛立ち紛れに籠の中のナハティガルを突いてみたが、起きない。こんなことなら一度素直に精霊界に帰してやればよかった。このままいつまで寝ているのだろう。
あの減らず口が聞けないだけで心細い。
「峠を越えて次の村まで少し歩かないといけません。峠越えにあまり時間をかけすぎては野宿するハメになりますよ」
「別にいい。いざとなれば野宿くらいする」
旅に出ると決めた時、野宿することもあるだろうとは思っていた。クラウスに二度と会えないことを思えば、そんなものは少しも苦ではない。
それでもラザファムはかぶりを振った。
「このところ体を冷やすことが多かったですから、ご自分で思われている以上に疲れは蓄積されているはずです。あまり甘く見ないことですね」
「そんなことは……」
「ありますよ。これまでの人生で、雨に打たれたり川に落ちたりした経験なんてないでしょう? 全部初めてのことなんですから、ご自分の体力を過信しないでください」
「う……」
言うことがいちいち正論なのがラザファムらしい。アルスは言葉に詰まり、それをごまかすように足を速めた。
――しかし、坂道というのは、少しの傾斜がどうしてこんなにも体力を奪うのだろう。
アルスはこんなにも長い坂を登ったことがなかったので、坂道を甘く見ていた。風は通るけれど、暑いとさえ思う。
アルスは息が上がっているのに、ラザファムは意外に涼しい顔をしていた。本の虫だったはずが、いつの間にそんな体力を身につけていたのだろう。
「大丈夫ですか、アルス様?」
時折、気遣うように言った。
「もちろんだ」
口ではそう言っても、ゆとりがないのは見破られていたのだろう。少し開けた道へ来ると言った。
「昼食がてら休みましょう」
「……まだいい」
「どの地点で休もうと距離は変わりませんよ」
平然と言い放つと、ラザファムは丁度いい岩の上に腰を下ろした。アルスも強がるのをやめて隣の岩に座る。座った途端に脚がガクガクした。
「まだ半分も来てない」
「そうですね。ほら、ここから遠くが見渡せます。あっちが王城ですよ」
さすがに城までは見えなかったが、トーレス村や〈川の恵み亭〉がぼんやりと見えた。とても見晴らしがいい。そんなところで食べる昼食は美味しかった。全粒粉のパンにサラダ菜とカッテージチーズ、川魚の燻製が挟まっている。旅が終わったらあの宿の夫婦を城に招待したいくらい気に入った。
食べ終えると、風がサッと吹いた。アルスは大きく伸びをする。
この時、食べ終えたラザファムの表情が何故か険しく感じられた。
「どうした?」
「……いえ、何か聞こえた気がして」
「何かって?」
「はっきりと言えないのですが」
ラザファムはよくわからないことを言い出した。はっきりと正体を突き止められていなくて、本人ももどかしいようだった。
立ち上がると、空を見上げる。
「大いなる精霊よ、我が呼び声に応えよ」
ラザファムの手の甲がポゥッと光る。そして、空から落ちてくるように飛来したのは、いつかの鳶だった。
「我を呼んだか、人の子よ」
イービスだ。いなくなったノーラを探す時に手伝ってくれた。
ラザファムが差し出した腕にイービスが停まる。見栄えだけはいいラザファムが精悍な鳶を携えているととても絵になる。
だが、アルスはいつも気になった。
「なあ、なんでイービスとだけそんな重々しいやり取りなんだ?」
格の高いシュヴァーンだって、王配のベルノルトとそんなやり取りはしない。
イービスは鷹揚にうなずいた。
「姫よ、それは我の頼みだ」
「そうなんだ……」
別にやる必要は全然ないのにやりたいだけということらしい。
そんなイービスにラザファムは慣れたものだった。
「この峠は静かすぎる気がする」
イービスは片方の翼を広げ、そこに風を受けながら答えた。
「うむ。警戒は怠らぬがよいな」
どのみち、先へは進まなくてはならないのだ。アルスも気を引き締め直した。
無事、峠を越えられるように祈りつつ。