7◆貴重な体験
アルスは一晩中降り続くかに思えた雨の音を聞きながら眠りについた。
毛布は薄く、寒さを完全に防いでくれるものではなかったけれど、こうして横になって休めるだけありがたい。
ラザファムも意地を張らなければいいと思うけれど、男同士の友情のことはアルスにはわからないから強くは言えない。
明け方になると雨は止んだらしく、光も差した。
アルスはのっそりと起き出して着替える。雨に濡れた服は少し干したくらいでは乾いておらず、荷物に入れてあった別のものを選んだ。エンテに服を乾かしてほしいと頼むと、ナハティガルほどうるさく騒がないにしても矜持を傷つけてしまいそうなので諦めよう。
出立までの時間、風通しの良いところに干させてもらうことにした。
濡れた服とナハティガルの入った籠とを抱えて礼拝堂へ向かうと、ラザファムが長椅子に座ったまま寝ていた。ファティが暖炉の火をいつもより長く消さずにおいてくれたのかもしれない。まだほんのりとあたたかかった。
椅子の背もたれに首を預けて眠っているラザファムは、アルスが近づいても起きなかった。もしかするとなかなか眠れなかったのかもしれない。
無言で隣に座ってみたが、起きない。警戒心の塊のようなラザファムにしては無防備な姿だ。すぅすぅと寝息を立てて眠っている。寝顔にはあどけなさも残っていて、何か貴重なものを見たような気分だった。
起こすのも悪いような、そんなに疲れているなら部屋で寝直せと言おうか迷っていると、ラザファムがボソリとつぶやいた。
「……アルス様」
呼ばれた。眠っていると見せかけてすでに起きているのか。
「なんだ?」
返事をしたら、ラザファムはハッと野生動物のような目覚め方をした。そういう反応を見せるということは、やはり寝ていたのだろうか。
アルスが首を傾げていると、ラザファムはひどく戸惑って見えた。
「いや、あの……」
「どうした?」
「いえ、すみません。寝ぼけました」
そう言って顔を背けた。寝ぼけたと。
アルスは思わず笑ってしまった。
「なんだ、夢でも見ていたのか? 夢の中でまで私に振り回されたとか、そんな苦情は受けつけないからな」
「本当ですよ。あなたはいつだって……」
前髪を手で乱すように顔を覆ったラザファムがそんなことを言った。言葉尻は小さすぎて聞き取れない。
「疲れが取れていないんだろう? 私は横になって休ませてもらったから、今からでも今度はお前が部屋を使わせてもらったらいい。もう黙っていかないし、ちゃんと起きるのを待ってるから」
前科のあるアルスがそう言っても説得力がなかったのかもしれない。ラザファムはうなずかずに目を細めた。
「ナハはまだ寝ているんですか?」
「そうなんだ。職務怠慢にもほどがある」
それを言ったら、ナハティガルの寝息が、ぷすこー、とよくわからない音になった。寝ながら抗議しているのだろうか。
「早く起きてほしいものですね」
「まったくだ。エンテは?」
「子供たちのところです」
「大人気だな」
「二度と猫になりたがらないかもしれませんね」
ラザファムはそう言って苦笑した。エンテが可愛い白猫の姿だったから泊めてもらえたようなものなので、今後も可愛い姿でいてほしい。
そんな話をしていると、ファティがやってきた。昨日と同じ法衣姿だ。
「おはようございます。ラザファムさん、エルナさん」
「おはようございます」
「おはよう」
ファティに名を名乗る時、人を訪ねる旅だとだけ伝えた。行き先は北だが、それがノルデンであることまでは言っていない。
「雨は上がりましたが、やはり川は増水しています。今日の川渡しは無理かもしれませんね」
「えっ!」
無理だろうとは言われていたが、それでは困る。
ファティは自分が責められているかのように申し訳なさそうな顔をした。
「この状況では舟を出してもいいと言ってくれる人はいないかと」
「それでも急ぐ時はどうしたらいい?」
「いえ、こればかりは自然相手ですので……」
何かあってからでは遅いとばかりに、ファティは首を振る。まだ食い下がりたかったアルスを、ラザファムがやんわりと目で制した。あまり困らせるなと叱られた気分だ。
「今後のことはまた考えます。泊めて頂いてありがとうございました」
ラザファムが礼儀正しく頭を下げると、ファティはほっとしたように笑った。
「朝食の用意をしますから、もう少しお待ちください」
何か手伝おうかと言いたかったけれど、アルスが手伝ったら終わるものも終わらないかもしれない。邪魔をするだけだ。
ナハティガルが起きていたら、『アルスってば役立たずだね』とか平気で言ってきただろう。
「何から何まですみません。助かります」
「ありがとう」
ラザファムと一緒に礼を言った。ファティが礼拝堂から出ていくと、ラザファムは軽く息をついてから言った。
「川留めに遭うとは思いませんでしたが、精霊の力を借りれば渡れるかもしれません」
なるほど、とアルスは手を打った。
「背中に乗せてもらうんだな?」
アルスもたまに大きく膨らんだナハティガルに乗せてもらう。ナハティガルは持久力がないので川を渡り切れるとは思えないが。
ラザファムはアルスの言葉に軽く目を眇めた。
「いえ、舟が渡れるように水を抑え込んでもらえないかと」
エンテは乗せてくれないらしい。そんな感じではあるけれど。
「まったく、ナハがさっさと起きればいいのに」
そうしたら、精霊二体で楽になるはずなのだ。未だに高いびきである。
「それにしても、本当によく寝ますね。こういうことは今までもありましたか?」
「ない」
アルスは即答した。ナハティガルはアルスが起きている時は一緒に起きている。アルスが寝る時だけ暇だから寝るのだと言っていた。
もしかして、これはただ寝ているのとは違うのだろうか。ナハティガルに何かが起こっているのだとしたら。
「……僕は精霊術師になる際、精霊の性質について学びました。精霊も人ほどではないとしても休息が必要で、眠るのだと。その程度には個体差があるとされています。でも、精霊がいびきをかくという事例はありませんでした」
「え、えぇ?」
「だから――」
ラザファムはふとアルスに向けて表情を和らげる。とても優しい顔だった。
「精霊のいびきを聞くなんて、またとない貴重な機会ですよ」
それを聞いて、アルスは吹き出してしまった。
「そうかもな。私も初めて聞いた」
「僕もです」
クスクスと笑っているアルスと一緒にラザファムも笑う。
こういう時、ラザファムはアルスの不安を取り除こうとしてくれているのだなと感じる。誇示しない優しさだった。