6◆ダウザー
魔の国を山から吹き下ろす風が駆け抜けた。
草を揺らし、川の流れに沿い、冷たく吹く。
クラウスはここへ連れてこられるまで、魔の国にこれほど高い山があるとは知らなかった。その他のことも何も知らなかったと言っていい。魔の国のことは、ただの人間には知り得なかった。
魔の国へ足を踏み入れたが最後、戻ってきた人間はいないとされている。誰も命を捨ててまで探索になど向かわない。知識欲を満たす報酬は、魔獣に食い荒らされる惨たらしい死なのだから。
クラウスは城の胸壁からレムクール王国の方面を眺めるが、魔の国は霧が立ち込めていて遠くまで見通せない。
アルスは今、どの辺りだろうか。このところは事情が許さずにアルスのことを確かめに行けていない。
それでもアルスは着実にノルデンへ近づいているのだ。どのようにしてアルスを諦めさせて帰すべきなのか、クラウスにはまだ何も考えられていなかった。
ノルデンにクラウスがいないと知れば、何もせずとも帰るだろうか。まさか国境を越えて魔の国へ踏み入ったりはしないはずだが。
とはいっても、相手はアルスだ。時折クラウスが予測できないことをするから、とても安心できたものではなかった。
風に吹かれていると、肺腑にも魔の国の気配が染みついていく。常人には耐えきれないものだが、皮肉なことに今のクラウスを害することはなかった。
「故郷は見えるか?」
背中に声がかかる。振り向きたくはないけれど。
「……見えるわけがないと知っているくせに」
そこに立つのは、クラウスの悲劇を作り上げた者。
あの日、クラウスが大切な日常と決別する運命を作った魔族。
魔族の中でも最強と言える存在だった。
青味の強い肌に鋭い眼光。その目には今でも心の奥底では怯んでしまいそうになる。幼かった自分たちが到底太刀打ちできる相手ではなかったことを、今では嫌というほどよくわかっている。
「ダウザー、時間はあとどれくらい残されているんだ?」
ダウザー。
この魔族こそがクラウスを見出し、魔に染めた。半分はクラウスが自分から願い出たことでもある。
「それがわかれば苦労はないな」
失笑を返された。
それでも訊ねたくなる。クラウスに許された時はあとどれくらいあるのかと。
そんなものはもうないのかもしれないのに。
ダウザーは黒い目を細め、クラウスに言う。
「お前の未練が切れることはないとしても、お前自身が願ったことだ。あの姫を助けるためにお前はその身を差し出した。お前が約束を違えるのならば、こちらとしても守る理由はなくなるな」
ダウザーの言葉が、クラウスの心臓を握り潰すように向けられた。いつでも手の平の上に載せられているのと同じなのだとわかっている。
アルスはクラウスの心臓そのものだから。
「約束は守る」
それを聞くなり、ダウザーは犬が牙を剥くように顔をしかめた。
「陛下の御体はもう限界だ。イルムヒルト様もお覚悟をされている」
ダウザーが言うところの〈陛下〉とは、つまりが人が魔王と呼ぶ存在である。
ただし、クラウスは魔王に謁見したことは一度もない。クラウスが魔の国へ連れられてこられた時、すでに魔王は衰弱していた。その状態で人に会わせるわけには行かないということらしい。
魔王の代行者と言えるのが〈イルムヒルト〉だ。
クラウスたち魔王候補から次期魔王を選ぶのもイルムヒルトの役目である。
ダウザーも、消滅を間近とする魔王に心を痛めているのだろうか。魔族なのに、と少し前の自分ならば奇妙に思った。
けれど、今となってはそんなことは思わない。魔族も人も、結局のところは同じなのだ。
魔王は死を前に何を思うのだろう。