18◆大器
ハインは目の前で起こったことを受け入れられないようだった。
一縷の希望に縋りたかったのだろう。ナハティガルを抱くアルスに詰め寄る。
「お、お願いします! 先ほどの不思議な力で妻を助けてください!」
アルスはその勢いにたじろぎ、半歩引いてしまった。ハインが伸ばした手を遮るようにラザファムがアルスの前に立つ。
「申し訳ございませんが、息を引き取られた方にできることは何もありません。ただ……お悔やみ申し上げます」
「そ、そんなっ!」
納得がいかないとしても、ラザファムが言いうように本当にできることは何もない。
できることがあるのならよかったけれど、こればかりは手の施しようがなかった。
彼女の死は出産によるところなのか、トラウゴット草のせいなのか。
もしあの治療師のせいならば、罪状に殺人を加えてやらねばならない。
絶対に許せないことだから。
体の震えが止まらない。行き過ぎた感情が体を蝕むようだった。
庭に倒れている治療師に鉄槌を下してやりたいと思った。命までは奪わずとも、苦痛を与えてやりたいと。
どくん、どくん、と自分の鼓動がやけに大きく感じられる。
――いつまでも、古傷は癒えない。
アルスは、幼かった日の母の死を思い出し、母の死までもがあの治療師の男のせいであるかのように憎く思った。
アルスが踵を返し庭へ行こうとすると、廊下にコルトがいた。
ポツン、と立っている。
「コ、コルト?」
そういえば、ラザファムが呼んだのだった。感情的になりすぎて忘れていた。
コルトの頭上を、美しい青い翅をした蝶が飛んでいる。
「嫌な気配がしていましたが、一体何が起こったのです?」
蝶はヴィルトだった。コルトの要望に合わせて姿を変えていたのだ。
「……詳しいことはラザファムに訊いてくれ。私は上手く説明できそうにないんだ」
振り返ってラザファムを見ると、やはり悲しい表情を浮かべている。
「誰が亡くなったのでしょう?」
精霊であるヴィルトは敏感だった。仄めかされた〈死〉にコルトがびくりと肩を震わせる。
怯えたのではなかったのか。コルトはアルスとラザファムの横をすり抜けて、止める間もなく部屋の中へ入ってしまった。
「コルト」
ラザファムがコルトを引き戻そうとしたが、コルトは従わなかった。悲しみに暮れる死の床へ近づいていく。
コルトの父を信じてくれなかった叔父。
ハインはコルトの父に成り代わって、村長の座とこの屋敷を手に入れた。コルトは、叔父の嘆きを天罰と思うだろうか。
ただじっと、静かに叔父を見て、それから赤ん坊に向けて言った。
「この子、僕と同じだ。お母さんがいない子。悲しいね。……でも、まだお父さんがいるよ」
ハインはハッとして顔を上げた。
「一人で二人分の愛情を注ぐからって、お父さんはいつも僕に言ってくれた」
コルトの頬を涙が滑り落ちる。
いい気味だなどとは思っていない。コルトはこの赤ん坊を純粋に憐れんでいる。
賢くて、優しい子だ。それは父親の愛情の賜物なのだろう。
アルスは悲しみに捌け口を求めたけれど、コルトは悲しみをそっと包む。
「そうだな、悲しいからといって私が嘆いているだけでいいはずがなかった。ありがとう、コルト……」
うん、と言ってコルトはうなずいた。
「僕に手伝えることがあったら言ってね」
「……お前は本当に兄さんに似ているな。これまでろくにお前を助けてやらなかったのに、私を恨んでいないのか?」
人には薄暗いものに引かれる部分と、極端に忌避する部分とがある。
この村の人々は後者だった。違法植物を育て、魔に染まりかけたと思ったグンターのことに蓋をしたがった。だから、グンターに連なるコルトにも冷たくなった。自分たちから離していたかった。
小さな集落ほどそういうことがあるものなのかもしれない。
「お父さんを信じてくれないことには怒ってるけど、それとこの子は別だから」
器というものは、生まれ持った性質なのだろう。
アルスはコルトにも敵わない気がしたが、嫌な気分ではなかった。
コルトを部屋に残し、アルスは庭へ行く。
もう攻撃的な気分にはならなかった。ナハティガルは目を閉じ、眠っているように静かだ。
ラザファムもついてくる。アルスを心配してくれているのだろう。
ラザファムの周りを蝶になったヴィルトが飛んでいる。
この時、治療師の姿は庭のどこにもなかった。ただ、着ていたローブが落ちている。
あの調子で逃げられるとは思わなかった。一体どうなっているのだろう。
すると、ヴィルトが地面スレスレのところを飛びながら言った。
「うーん、この人間はトラウゴット草の種を飲んだみたいですよ」
「えっ?」
「ラントエンゲのものを体内に取り込み、体が耐えきれなかったのでしょう。綺麗に消えてしまっていますね」
「死ぬと思わずに飲んだのか?」
「五分五分の賭けだったんじゃないでしょうか? あの赤ん坊のように上手い具合に魔への耐性ができていれば、あるいは……」
すると、ラザファムがアルスの隣でつぶやいた。
「あの赤ん坊は母体の時から摂取させたという。急激な摂取は負荷に耐えきれない、か」
「人間はそもそも、我々精霊の次に王様の光を受けた存在ですから魔への耐性は低いのです。でも――」
そこでヴィルトが言い淀んだ理由がわかり、アルスはハッとした。
「クラウスは……」
生還したクラウスは魔に染まっていた。
クラウスはどんな方法で染められたというのだろう。
ヴィルトもこの問いに対する答えは持たない。ヒラヒラと飛ぶばかりだった。ラザファムも無言で寂しい庭を見つめていた。