3◆人助け
「アルスってばさぁ、ほんとに急いでるワケ?」
アルスは、今日も翡翠のごとく美しい羽根をした鳥のぬいぐるみ――ではなく、守護精霊ナハティガルに嫌味を言われていた。くりんくりんの丸い目が呆れながらアルスを見ている。
「当たり前だろう? なんで急いでいないと思うんだ?」
十七歳になった王妹アルステーデ・エルナ・フォン・ファステンバーグは、レムクール王国の最果て〈ノルデン〉へ向かう旅の途中だ。
ただし、その旅というのは公式なものではなく、アルスが勝手に城を飛び出して向かっているに過ぎない。他から見れば家出と変わりなかった。
立場を考えるなら、こんな軽率なことはすべきではないと、それくらいはわかっている。
けれど、アルスにはどうしても譲れない事情があるのだ。アルスを庇い魔族に囚われた婚約者、クラウスのためである。魔に染まったとして、クラウスを彼の父親は最果てのノルデンへ追放した。
ノルデンは、魔族の棲む魔の国に最も近い町で、罪人の流刑地でもある。そんな場所へ追いやられてしまったクラウスを迎えに行くため、アルスは単独で旅に出たのだ。
アルスの守護精霊であるナハティガルだけは否応なしに道連れになるのだが。
そのナハティガルに呆れられてしまうほど、アルスの旅は順調ではなかった。
先日はデッセルの町での騒動に巻き込まれた。今度こそと思って馬車に飛び乗り、そのまま行けるところまで行くつもりだったのに、今はその馬車に置き去りにされるという状況に陥っている。
「急いでいるけれど、仕方がない」
「そぉねぇ」
また腹の立つ言い方をする。
アルスは背負った子供がずり落ちてくるのを直しつつ、地道に一歩ずつ歩くのだった。
この子供が、アルスまで馬車に置いていかれた原因ではあるのだが。
二時間ほど前まで、アルスは快適な馬車の旅をしていた。
王室御用達の馬車と比べてしまえば座り心地は悪いし、速度も出ない。それでも歩いて進むことを思えば十分なものだった。さっさと旅を終えたいナハティガルも機嫌よくしていた。
しかし、アルスが何気に車窓から外を見た時、倒れている子供を見つけてしまったのだ。
危うく見過ごしてしまうところだったが、子供の服が白っぽかったのでよかった。土に近い色だったら見落としていた。
「止めてくれ!」
アルスが慌てて御者に言い、止まった馬車の扉が開くなり外へ飛び出した。
「な、なんだぁ?」
御者は戸惑っていたが、アルスは子供目がけて走った。
「そこの子供! 大丈夫かっ?」
すでに息がなかったらどうしようかと緊張したが、うつぶせに倒れている子供の首に手を当てると、弱々しいながらに脈があった。体が冷えきっているのかと思えば、思いのほか熱い。熱がある。
子供には辛うじて意識があり、かすれた声でアルスに言った。
「ノル、デンへ……」
「えっ?」
ギクリとした。
この子は今、確かにノルデンと言った。まさか、ノルデンへ行こうとしているのだろうか。
それとも、ノルデンから逃げ出してきたのだろうか。
そう思えるほど、この子供はみすぼらしかった。遠目には白いと見えた服も近づくとひどく汚れている。何日も同じ服を着続けていたような。
髪の色は茶色で、多分男の子だ。六、七歳といったところか。
アルスはぐったりした男の子を抱えると、停まっている馬車の方へ運んだ。そして、御者に向かって言う。
「子供が倒れていた。この子も一緒に運んでくれ」
当たり前のことを当たり前に言ったつもりだったが、御者は顔を曇らせた。馬車にはアルスの他に客はおらず、運べるだけのスペースがあるというのに。
「次の村か町まででいい。この子の代金も私が払う」
問題は金なのかと思ったが、そればかりではなかった。
「馬車が汚れちまう」
ボソッとそんなことを言われた。アルスは耳を疑った。
確かに汚れてはいるかもしれないが、だからといって明らかに具合の悪い子供が行き倒れている今、それを言いうのかと。
「だから?」
アルスの声が一段低くなる。
「汚れたからなんだと? 最初っから十分汚い」
耳元でナハティガルが、あちゃ~、とぼやいた。
このアルスの言い分に御者は怒るかと思えば、どちらかというと腰が引けている。
「と、とにかく、そんな得体の知れない子供は乗せない」
「得体が知れない?」
「昨今じゃ、人間に成りすました魔族がいるらしいじゃないか。もしその子が魔族だったらどうする? あんたも食われちまうぞ」
人型の魔族が人間を食べるなんて誰が言ったのだろう。むしろ、人型の魔族は知能があるから、そんなゲテモノは食べないのではないだろうか。
獣や虫型に関しては、野生の生物と同じ程度には食べるかもしれないが、人型が人を食べるという報告を受けたことはない。
民衆の恐怖心が暴走してそういう話を作り上げてしまうのだろう。
「落ち着け。そんなわけがあるか。この子はただの子供だよ」
冷静に言ってやったが、御者は納得しなかった。
「ただの子供がなんだってこんなところにいるんだよ? 俺は騙されねぇぞ」
「ガタガタうるさいな。この子の具合が悪化したらあんたのせいだぞ」
「知るか! まさかあんたも魔族だったりしねぇだろうなっ?」
「そんなわけがあるか! 私は――」
「うるせぇ! 乗せねぇったら乗せねぇからな!」
大の男が子供のようなことを言い出した。どうしたものかと思っていると、御者は馬車馬にピシリと鞭をくれた。
「あっ!」
ここまで乗った代金もまだ支払っていないのに、アルスのことまで置き去りにして馬車が引き返していく。唖然としてしまったが、子供を抱えていては追いかけて飛び乗るわけにも行かない。
立ち尽くしていると、ナハティガルが肩で飛び跳ねた。
「あ~あ、アルスの口の悪さが裏目に出たね」
「お前にだけは口が悪いとか言われる筋合いはないぞ」
「フツー、お姫様はガタガタうるさいなんて言わないでしょ?」
「うるさい」
言う姫がいてもいいじゃないか。
「大体、こんな可憐な魔族がいると思うか?」
さすがに魔族扱いは腹立たしい。
しかし、ナハティガルは庇ってくれなかった。
「可憐って、自分で言う人が可憐だったためし、ないよね? ある意味、アルスの方が魔族より怖いし」
「コイツ……」
両手が塞がっているのが恨めしい。ナハティガルはアルスの頭の上でぽよんと跳ねた。
「それで、これからどうするのさ? ボクみたいに気高い精霊に荷車になれとか言わないよね?」
「ああ、それいいな」
すると、ナハティガルは羽毛を逆立てて怒った。
「ちょーっと! 冗談でしょぉ? 大体、アルスがラザファムのこと置いてくるから悪いんだよ!」
「まだ言うか。しつこいな」
「しつこいとかしつこいとか、しつこいとか!」
気に入らなかったらしく、つむじを突かれた。
もう面倒くさくなって、アルスは子供を背負い直して歩き始めた。方角は間違えていないはずだ。
「まさか、背負って歩くつもり?」
「お前が荷車になってくれない限りな」
「なんないし!」
ナハティガルは、アルスがそのうちに疲れて謝ってきたらなんとかしてやろうかな、くらいに思っているのだ。それがわかるアルスだからこそ、ナハティガルにはもう頼まない。
――と、そんなわけで具合の悪い子供を背負って道を歩くという状況が出来上がってしまったのだった。
もちろん先を急ぐ身ではあるけれど、譲れないことも時々はあるのだから。
「……あれは何をしているのでしょう?」
風が吹く丘の上からアルスを見下ろしているクラウスの肩で魔蜥蜴のシュランゲがつぶやいていた。
「人助けかな」
黒衣をはためかせながらクラウスが苦笑すると、シュランゲも一緒に揺れた。
「一国の姫が体を張って?」
解せないとばかりにシュランゲは目を閉じて考え込んだけれど、クラウスにはアルスらしいと映った。いつでも、まっすぐなアルスは弱者の味方だから。
「さて、そろそろ戻るか。うるさいのが探しに来ると厄介だからな」
「ええ、そうなさいませ」
強く吹いた風に攫われるように、闇溜まりのような彼の姿はその場から消えていた。
後に残るのは、僅かな魔の気配だけである。