15◆人生経験
町の番兵を呼び、兄たちは拘束された。本来であればヴァイゼの番兵はニーダーベルガー公の支配下にあるはずだが、こうなっては国に従うべきだと判断した。
シュミッツ砦辺りに連絡が行き、この町に砦の兵が到着するのは時間の問題だ。シュミッツ砦はここから近く、それほど時間もかからない。
――この時、ラザファムはひとつ失念していた。
シュミッツ砦が近いのなら、そこを越えた先にループレヒトの故郷があるということを。
だから、兄たちのことでラザファムやウーヴェが手一杯で、やっと夜になって宿に落ち着けた時、ループレヒトの姿が見当たらなかったことに愕然とするしかなかった。
ループレヒトは単独でシュミッツ砦を越えるつもりだろうか。
それとも、越境を諦めてこの国のどこかに潜伏するつもりだろうか。
ラザファムは――そのまま宿の部屋に留まる。
ループレヒトを捜すにしても、夜道を行くのは危険だから。
――違う。
できることならば、二度と出会うことがなくていいと考えている。
彼はもう、何もしない。
それだけは信じていた。願っていた。
グンターはラザファムを軽蔑するかもしれないけれど、彼にも罪の意識はあったのではないかと思えた。
平然として見せていたのは、そうしていないと心が保てないから。何も感じていないと自分に言い聞かせた。
そうであってほしいと、ラザファムが勝手に考えただけかもしれないけれど。
処罰を覚悟で、ありのままを報告しようと決めた。
◇
――ラザファムの調査の旅は、思いがけないことの連続だった。
それでも、どうにか城へと帰り着いた。
ただし、心身共に疲れ果てている。
グンターは旅を終えて刑期が短縮されるのだから、少しくらいは晴れやかな気持ちで帰還できただろうか。
そうだといいけれど、表向き穏やかに振舞う彼がどう考えているのかは若輩のラザファムには読めなかった。
城が見えた頃、ラザファムの頭上に影が落ち、ふと見上げると一匹の白鳥がいた。ただの鳥ではない。精霊だ。
「おかえりなさい。皆様がお待ちですよ。あまりに気にされるので、私は何度も様子を見に行きましたから」
この優しい声はシュヴァーンだ。ベルノルトは自分が同行できなかったから、余計に気にしてくれていたのかもしれない。
「そうでしたか。旅の汚れを落としたらベルノルト様にもご報告に上がります」
「ええ、そうなさってください」
すぐそこまで来ているけれど、長旅のみすぼらしい恰好で会うのは失礼に当たるだろう。
シュヴァーンは本当に様子を見に行かされただけなのか、それだけ言うとまた飛び去っていった。
報告は正確にしなくてはならない。ループレヒトを見つけ、そして逃げられた、その過失はラザファムの責任だ。
兄のこともだ。こうなっては家のことなど知らないとは言っていられない。
城門を潜り、光が見えてきたその先――。
その光景にラザファムは目を疑った。調査隊の皆が馬から降り、ひれ伏す。
あまりに煌びやかな顔ぶれだった。
王配ベルノルト、精霊シュヴァーン、レクラム大公クラウス、王妹パウリーゼと守護精霊アードラ。
そして――。
「ラザファムぅ! おっつかれぇっ!」
青い鳥が騒がしく飛んできて、ラザファムの横っ面に激突してから肩に降りた。そこで体をゆらゆらと揺らしている。
「ナハ、ありがとう。ただいま」
守護精霊ナハティガル。それから。
「おかえり、ラザファム!」
この声に、微笑に、まだ心は騒ぐけれど。それでも、その心を隠して平然と返すのは以前と同じだ。
「ただいま戻りました、アルス様」
「まあ、お前のことだからそれほど心配はしていなかったけどな」
アルスはそう言って快活に笑う。
豪華なドレスとは裏腹の、そんな気取らない仕草でさえ、しばらく離れていただけで美しさに磨きがかかったように感じた。だから、眩しい。
「そぉだよ。アルスがついていかないんだから、問題なんて起こんない」
ナハティガルが放った余計なひと言に青筋を立てていたとしても。
この他愛のないやり取りが日常的に繰り広げられていることが、ラザファムにとっても嬉しいけれど。
そこにやんわりとベルノルトが挟まった。
「ラザファムの報告を聞かねばならないのに、義妹たちが一緒に行くと言って邪魔をする。困ったものだ」
「まあ、ベル兄様! 邪魔だなんてあんまりだわ。ベル兄様だって報告を聞きたい前に報告したいだけでしょう?」
パウリーゼがそんなことを言って頬を膨らませた。そのひと言でラザファムは察した。やはり、女王は懐妊したのだ。
「うん、まあ、それもある」
ベルノルトは照れをごまかすように頬をかいている。
――平和だ。
少なくとも、この時ラザファムはそう思った。
たくさんの問題を孕み、それぞれの肩に責任がのしかかっているのは明らかなのに、それでも平和で、それを幸せだとラザファム自身が強く感じたのだ。
何か急に言葉に詰まってしまったが、それを知ってか知らずか、クラウスがラザファムの肩をぱちん、と叩いた。
「お互いに多分、色々あったよな」
クラバットを着用した貴族然とした装いが似合っているけれど、クラウスの笑顔には隙がない。
「ニーダーベルガー公爵家のことだな」
「まあね」
互いに話さなくてはならないことが多すぎる。けれど、ラザファムがここで立ち話を続けてしまうとウーヴェたち皆が休めない。彼らにも帰還を報告したい相手がいるはずだ。
ベルノルトは皆を労い、そうして調査隊を解散させた。
グンターだけはまたしばらくは牢に戻されるわけだが、極北まで旅をさせた挙句にいきなり牢へというのではあんまりだ。疲れを癒してからという話である。その間は看守にグンターを任せる。
アルスは見るからにグンターのことを気にしていた。もちろん、ラザファムも。
けれど、ラザファムはループレヒトの件があってからこの旅を終えるまで、グンターには当り障りなく接することしかできなかった。
傷つけたくないと思うほど、上手く言葉にできない。
彼の心の膿を出すには、ラザファムはまだ人生経験が足らないのだろう。
情けないけれど、ラザファムにとってグンターは、どう扱っていいのかわからない腫れ物のままだった。
グンターが看守に連れられていく前に動いたのは、アルスではなく何故かパウリーゼだった。白い翼のアードラがパウリーゼの後を追う。
「ニコライさん」
パウリーゼの幼く高い声がかけられ、グンターはハッと振り向いてから頭を垂れた。しかし、声を発することはしない。発言を許される身ではないと思うのだろう。
そんなグンターに、パウリーゼは王族としての気品を忘れずに微笑む。
「あなたの事情をお聞きしました。あなたが行ったことは法の上ではいけないことだったのかもしれません。でも、誇ってよいとも思うのです」
「……え?」
思わず声が漏れたといった様子だった。顔まで上げかけて、グンターは慌てて下を向く。
そんな彼を誰も咎めないけれど。
パウリーゼは柔らかく、けれど毅然としているようにも見えた。
「子供を救おうとした気持ちそのものは責められるものではありません。罪は償っているのですから、刑期を終えた後は秘密にするのではなく、誇ればよいのです。誰があなたを責めようと、お子さんはあなたのことを自慢に思うでしょうから」
「けれど、私は……っ」
戸惑うグンターに、ナハティガルを連れたアルスも駆け寄る。
「コルトはこれから立派な人物になるよ。そんなコルトを見れば、誰だって何が正解かわかる。あなたが気に病み過ぎてもいいことはないよ。後の人生は楽しんで過ごしてほしい」
「そーそー」
ナハティガルが偉そうにうなずいている。
アルスがグンターの汚れた手を取った時、彼の目からポツリ、ポツリ、と涙が零れていた。
「もし今後、誰かがあなたを責めることがあったとしても、わたしたちの言葉を思い出してくださいますように」
ふわり、とパウリーゼはグンターに微笑みかける。
アルスはコルトと関わってそれをする理由があるけれど、パウリーゼにはグンターへの思い入れはないと思っていた。事情を知って、グンターの心を救うために声をかけてくれたのか。
ラザファムは、そんな光景を眺めながら自嘲した。
――人生経験がなんだって?




