14◆生きたいか
ループレヒトの目がラザファムに向く。
そこにあるのは、冬の湖のような虚無だった。ラザファムが身構えたからか、ループレヒトは薄く笑う。
「殺してないから安心しろ」
「君は……」
喉が渇いて張りついたように声が出づらかった。それに対し、ループレヒトは淡々としたものである。
「手を出すつもりはなかったんだが、あまりの馬鹿さ加減に聞いていて苛ついた」
「……記憶を失くしたなんて嘘だな?」
今のループレヒトからは以前の禍々しさも垣間見えるようだった。精霊たちに人も邪だと言われてしまうのが仕方がないほどには。
しかし、ループレヒトには悪びれた様子もない。この、人を食ったような態度の方が彼らしい気がする。
「お前についていけばクラウスのところへ辿り着くかと思って」
「クラウスに用があるのか?」
その名前にラザファムがさらに警戒を強めたのも伝わったはずだ。
以前、二人は同じ境遇に置かれていた。なんらかの連帯感も持ち合わせているのかもしれないが。
「まあ、あると言えば多少は。やることもなくなったから、魔の国の話くらいはしてやろうかと」
ループレヒトは、あの国がどうなったのか知っているのだ。それならば、クラウスは聞きたいだろう。
けれど、正直に言うなら会わせたいとは思わない。
クラウスはこちら側に、アルスのそばに戻りたいと願っていた。
ループレヒトの本心がわからない。クラウスに悪い影響を与えはしないだろうか。
記憶を失っていないとなると、彼をどう扱っていいのかが難しい。兄たちを昏倒させた手並みの鮮やかさは、やはりあのロルフェスの血筋だと思う。
優美に見えてもダウザーに見出されたほどには優秀だ。
「僕が精霊に聞いたところ、魔の国は島になって流れたのではないかという。本当にそうなのか?」
ラザファムがこれを言うと、ループレヒトはどこか柔らかく微笑んだ。
「そう。ゲオルギアの力で、ここではないところへ行くと姫が言っていた。で、僕たちはお払い箱になったわけだ」
イルムヒルト姫はダウザーさえいればいいのだ。
ダウザーとしても、イルムヒルト姫のために用意した青年たちであるから、姫が要らないというのならもう要らないのだろう。
いかに事情があれど、彼らの人生を狂わせておいて勝手だとは思うけれど。
「他の候補者たちはどうなった?」
「さあ? 家に帰ったんじゃないか?」
あっさりと言われた。これには絶句するしかない。
「そんなこと……っ」
「いけないって? 別にあいつらの国じゃ、あいつらはただの行方不明者だから。記憶が曖昧だとか言って行き倒れていればいいんじゃないか? 僕みたいに」
そう言って、サッと長い髪を払いのける。
彼らが魔の気配を撒いていたとしても、確かになんの証拠もない。
「姫とダウザーが力が残っているうちに国まで飛ばしてやるって言ったんだ。他のヤツは帰りたかったから帰った。僕はちょっと考えたかったから残った」
ループレヒトはため息をつきながらそんなことを言った。
「残ったって、ノルデンにあれ以上一人でいたら死んでいたかもしれない」
「だから、生きていたいか考えたかったってことだ」
真顔で返された。ラザファムが怯むと、何故かループレヒトは声を立てて笑った。
「あの時――お前が、僕には兄が二人いるなんて訳知り顔で言ってきたから噴き出しそうになったな。僕の兄は四人で、僕は五男だ」
ヴィリヴァルトとフィリベルトの他にも兄がいるらしい。それは知らなかった。
「どいつもこいつも優秀で、ロルフェスの男児は優秀で当たり前。僕は五番目に優秀ってトコだな」
そこに鬱屈した感情が見える。いかに公爵家とはいえ、ループレヒトは己が置かれた現状に満足していなかったのかもしれない。
あんな兄ばかりいたら劣等感を抱いても仕方がないとも思う。
「物心ついた頃には色々と諦める癖がついていた。この家で自分はそれほど重要じゃないってな。……まあ、場所を変えたところでまた別のヤツと競り合うことになるだけだったけど、兄たちよりはマシだ」
生身で魔族と戦えるような男と張り合うよりは確かにマシかもしれない。
ループレヒトは年齢も離れている長兄のヴィリバルトに頭が上がらなかったのだろう。
「僕も優秀過ぎる兄弟といて腐ることがいっぱいあったけど、傍目に見てこれほど醜いものもないな」
そう言って、足元に転がっている兄たちを冷たく見下ろした。そのまま足蹴にしそうな勢いだ。
ループレヒトの目に、ラザファムと兄との確執が醜悪に見えたらしい。
「……いや、僕が優秀なのではなくて、うちはただ仲が良くないだけだ」
「お前のそういうところが余計に腹が立つんだよ」
呆れ顔のループレヒトにそんなことを指摘されてしまう。
幼少期から引っ込み思案だったラザファムだ。兄の方が余程将来性はあった。
けれど、だからなのか。自分の下に見ていた存在が、いつの間にか自分以上に他者に認められ始めた時、自らを否定されたような気分になってしまったと。
もしそうなのだとしたら、それは自らが研鑽を怠った結果ではあるのだろう。そこにはベルノルトほどの、地の底から這い上がる力を必要とするでもなかったのに。
そう思うと虚しかった。
考え込んでいる場合ではなかったのだが、やっとウーヴェたちが駆けつけてきた。ループレヒトは小さく舌打ちをする。
「上手くごまかせ」
偉そうに言われた。そして、ループレヒトはまた記憶喪失を決め込むつもりか、取り澄ました顔をしている。
「ラザファム殿!」
そして、倒れている三人を見つけた。それが渦中の人と、自らの兄と、ラザファムの兄という最悪の組み合わせなのだから言葉を失ったのも仕方がない。
「一体、何が――」
ラザファムはループレヒトのこと以外は正直に話すことにした。
「この二人がジモン・ニーダーベルガーを逃がそうとしていたので取り押さえました。兵に引き渡しますが、よろしいですか?」
あまりに淡々と言うから、ウーヴェの方が一瞬ためらっていた。けれど、すぐにその言葉を呑み込んだ。
「あなたは正しいと思う方を選択すると仰いましたね。私もそうする、と」
「ええ」
「お互い、当分は大変なことになるとは思いますが」
「それも覚悟しましょう」
どんな困難にも逃げずに立ち向かった。今だからこそこの決断ができる。
もしこれがアルスとの旅に出る前の自分だったらこうはできない。
――自分は変わっていない。
変われないと思っていたけれど、本当はそうではなかった。
ラザファムも変わったのだ。困難に見舞われても踏み止まれるほどには。




