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Blue Bird Blazon ~アルスの旅~  作者: 五十鈴 りく
番外編

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8◆一人寂しく

「君は……」


 やはり、中に誰かいる。

 しかしウーヴェが臨戦態勢に入る様子は見られなかった。押さえつける必要がないほど弱っているのか。


 ラザファムは一歩踏み出す。

 この時、いつもの猫の姿になったエンテがラザファムを見上げて素早く言った。


「魔の気配です。僅かながらの……」


 それほどの脅威ではないが、何かを感じるらしい。


「わかった。気をつける」


 そうしてウーヴェの背中越しに中を覗けば、中には細身の姿があった。


「誰?」


 こちらに向けて誰何してきた青年は、表情らしきものも浮かべず、今にも消えてなくなりそうな存在だった。

 虚ろな目は何も映していない。ラザファムはどうしていいのかわからず、立ち尽くしていた。まさか、と。


「誰とは、こちらが聞きたい。君は誰だ? ノルデンの収容者じゃないな」

「わからない。知らない」


 ウーヴェと会話する声も、体と同じほどに細く頼りない。

 きっと、ラザファムが知っている頃よりも痩せた。黒かった服もボロボロで、埃に塗れて白けて見える。茶色の長髪はもつれていた。


 ――ひどい姿だ。

 ウーヴェはラザファムの方を振り返り、訊ねる。


「頭でも打ったのかもしれません。さまよっているうちにここへ辿り着いたのでしょうか? ……でも、どこから?」


 話しながらも、ウーヴェは自分で納得がいかないようだった。

 ラザファムは仕方なく彼に呼びかける。


「ループレヒト」


 家名を呼ばなかったのは、彼の兄たちに対する配慮だった。直接結びつけるかどうかはわからないが、ウーヴェも聞けば思い当たるかもしれない。


 しかし、彼はなんの反応も見せなかった。

 まさか、違うのかとラザファムが戸惑うほどには。それでも、エンテが言った。


「あの時、ナハティガルが消滅するほどの力を使って魔の気配を人体から追い出しましたが、徐々に抜けていくことがあるのでしょうか」


 クラウスはナハティガルによって浄化された。

 今、目の前にいるループレヒトは、魔の国が遠ざかったことによって魔の気配から解放されつつあるというのだろうか。しかし、そうなると、ループレヒトはただの人だ。以前のような力も振るえず無力な存在となる。


「ラザファム殿は彼をご存じなのですか?」


 ウーヴェが問いかける。


「ええ、少し……」


 知っていると言えるだろう。

 彼はこのレムクール王国の人間ではない。

 隣国、レプシウス帝国の公爵家の者であり、長兄であるヴィリバルトは皇帝の懐刀として有名な将軍だ。次兄フィリベルトはセイファート教団の祓魔師。有力貴族の家系に連なる。


 けれど彼はクラウスと同じように魔族であるダウザーによって連れ去られ、魔の国で過ごしていた。魔族の姫イルムヒルトの夫候補として。


 ――どうしたらいいのだろうか。

 まさかこんなところで遭遇するとは思ってもみなかった。彼を連れ帰れば、存在が明るみになり、ヴィリバルトたちに苦悩をもたらすかもしれない。かといって、こんなところに放っておけば死ぬ。


「君は僕を知っているのか?」


 ループレヒトがラザファムの顔をじっと見て、不思議そうに訊ねた。

 ナーエ村で対峙したことなどループレヒトは覚えていないらしい。アルスにしか注意を払っていなかったのだろう。

 そう思ったが、違った。


「知っているのなら教えてくれ。僕は誰?」


 そっと笑って問いかけられた。

 これには絶句するしかない。

 以前は気高く取り澄ましていたループレヒトが、迷子の子供のように見えた。


「……君の名前はループレヒト。兄が二人いる。何も覚えていないのか?」


 自分のしたことも、置かれていた環境も。

 彼もまた魔族にならず、人に戻った。けれど、自分が何者であるのかも忘れてしまったのなら、これは何かの弊害なのだろうか。


「わからない」


 ループレヒトは目を瞬き、それからひとつ身震いした。

 開け放ったままの扉から風が吹き込む。ウーヴェは困惑気味にラザファムとループレヒトとを見比べていた。


「彼はノルデンに収容されていたのですか?」

「違う」

「では罪人ではないのですね」


 罪人ではないと言っていいのかもわからない。罪ならばあるだろう。

 この時、後ろからグンターが中を覗き込んできた。


「あの、どうかされたのでしょうか?」


 一向にここから動こうとしない二人に痺れを切らしたらしい。こんな寒いところで待ちぼうけをさせてしまって悪かった。

 けれど――。


 グンターはループレヒトを見つけた途端、ハッと息を呑んだ。

 ウーヴェは、こんなところに人がいると思わなかったからだろうと、その驚きに深い意味を見出さなかった。ただし、ラザファムはグンターがノルデンへ送られた経緯を知っている。


 治療師の男に騙され、グンターは違法植物を栽培した。しかしその治療師を裏で操っていたのはこのループレヒトなのだ。


 グンターと顔を合わせてはいなかったと思っていたけれど、もしかすると会ったことがあるのだろうか。魔に染まっていた頃とは印象が違うから、確信はないのかもしれないが。


「……生存者がいたようなのですが、どうも記憶が曖昧のようで。一度教団の治療師に診てもらった方がいいのかもしれません」


 ウーヴェがそんなことを言い出した。


「ええ、そうですね。ここは寒いですから」


 ごく普通にグンターは返した。気づいていないのなら、それに越したことはない。

 ラザファムは、彼の存在をどうすべきなのかとても判断がつかなかった。


 ただ、放置できなかったのは、やはりヴィリバルトたちのことがあるからだ。どんな存在でも兄弟ではあるのだから、見殺しになどされたくないだろう。罪があるのなら償わせたいと考えるほどには清廉な人たちに思う。


 エンテを見遣ると、小さくうなずく。魔の気配は去り、今のループレヒトに力はないようだ。


 ここにベルノルトかクラウスがいてくれたら、と願ってしまう。

 けれどこれは自分に課された任務なのだ。

 ラザファムはそう考えるしかなかった。

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