5◆そこにない
ルプラト峠のルートはできれば通りたくなかった。
あそこでは悲惨な目に遭った。その記憶はまだ生々しい。
けれど、魔の国の状態を知るために遠くから確かめる必要があると考え、そちらを通ることにした。イービスに空から見たものを聞くこともできるが、直に見た方がいいだろう。ラザファムは以前、ここからノルデン方面をしっかりと見たのだから違いもわかるはずだ。
しかし、馬車を含む大所帯で峠を越えるのは大変なことだ。道幅も狭く、滑落するようなことがあれば余計に旅は難航する。
よって、ラザファムは調査隊を分けることにした。
「僕はノルデンが見渡せるルプラト峠に登ります。けれど、全員では無理なのもわかっているので、馬車は平坦な道を進むしかありません。ヴァイゼの町で合流するという形でお願いしたいのですが」
ルプラト峠を越えてすぐユング村はあるが、この大所帯ならばヴァイゼの町の方がいいだろうと考えた。
今の現状ならば、もう魔族は出ないと思われる。だから以前ほどの苦労はないはずだ。
きっと、ラザファム一人でも行ける。
しかし、ウーヴェが言った。
「私も峠越えにお付き合いしましょう。お一人で、何かあってはいけませんから」
できることならばウーヴェには残りの調査隊の面々を統率してほしかったのだが。
そして、もう一人。
「私も、違いがあれば何か気づいたことをお知らせできると思いますので、お供させてください」
グンターも申し出てくれた。
思えば、グンターはまだ罪人なのだ。皆の輪の中に溶け込めるものではない。ラザファムもウーヴェもいない中、彼を置き去りにしてはいけないのかもしれない。
「……わかりました。ではお二方、お願いします」
以前この辺りのトレース村に来た時、村の近くではペイフェール川に橋が架かっていなかった。舟による川渡しで対岸へ渡るしかなかったのだ。
けれど、今回はある程度はルートを選べる。トレース村の方面ではなく、馬車が通過できる大橋を通り、ペイフェール川を越えた先で調査隊の皆と別れた。ウーヴェの騎馬も彼らに預ける。馬を連れての峠越えはかえって困難になる。
トレース村を通らなかったことで会えなかった人々もいるが、子供たちからぬいぐるみのような扱いを受けたエンテは会えなくてほっとしているかもしれない。
調査隊を分離したことによって、ラザファムの周囲は風通しがよくなった。
それが気楽だと思ってはいけないのだろうけれど、本心ではある。もともとラザファムは、自分は人の上に立つようにはできていないのだと知っている。
途中、ウーヴェもグンターも口数は少なかった。
淡々と歩くのは、体力の消耗を最小限に抑えるためか、共通の話題がないせいか。――多分、両方だ。
ルプラト峠が近づくと、手前にあった宿をアルスはいたく気に入っていたな、と懐かしく思う。
あの時はアルスの体力と気力を気遣うばかりだったけれど、今は違った。
「何度か休憩を挟みながら行きましょう。無理をしてまで急ぐ必要はありませんから」
大柄なウーヴェから見ると、ラザファムは姫君と変わりないのだろうか。気遣われて少し笑ってしまった。
「ありがとうございます。さあ、グンターさんも行きましょう」
「ええ、足を引っ張らないようについていきます」
グンターが柔らかな笑みを見せて答えた。
彼にとってもこの少人数になったことで息苦しさを感じにくくなったのかもしれない。
やはり、魔族は出ない。のどかな道行だ。
グンターは、四十にはなっていないはずだが、それでも服役生活で体力は落ちている。息遣いが荒かった。それに対し、ウーヴェはやはり平然としている。
峠の道には、あの日の戦闘の跡がしっかりと残っていた。
木に蟲がつけた無残な傷痕。それでも、もうすべて過去だ。
頂上へ到達すると、風に吹かれながら北を眺めた。
以前のような闇そのもののような雲もなく、霧もかかっていない。鮮明な視界は、ノルデンの姿を包み隠さず見せてくれた。
高い塀と大門があるのだが、塀の一部が壊れている。ああなると大門もきっと歪んで開かないことだろう。ノルデンの人々は門を潜らずに壊れた塀の隙間から抜け出したのではないだろうか。
脱獄者はいないと聞いた。この状況で逃げ出しても魔族の餌食になると恐れたからだろう。
すべての囚人の生存は確認されている。だから今、ノルデンは無人のはずだ。
そして、その先。
魔の国は、ない。
本当に何もなかった。端からそこにはなかったかのようにして。
グンターはノルデンの方を眺めながらつぶやく。
「何人かがノルデンでの暮らしに嫌気が差して魔の国の方へ向かったことがあるのですが、大抵は戻ってきます。私を含め、本気で踏み入る覚悟のある者なんていませんでした。……眺めたことだけはあるのですが、そこには確かに道が続いていました。あんなふうに途切れてはいなかったんです。それとも魔の国そのものが最初から幻だったのでしょうか」
クラウスはノルデンから魔の国に渡ったというが、到着した直後にそれを行ったため、囚人たちのほとんどがクラウスの存在を認識していなかったのかもしれない。クラウスは厳密には囚人ではないのだから、目録に名前はなかったはずだ。
闇に閉ざされた彼の国を幻だと思う気持ちはわからなくもない。
それでも、クラウスは実際にそこにいた。その話を聞いているラザファムは他の人々と同じように幻だったと切り捨てることはできない。
ゲオルギアは魔の国を他から切り離した。そして、どうしたのだろう。そこにないのだと、わかることはそれだけなのか。
あの魔族の姫もダウザーも、消えた魔の国と共にあるのか。
エンテたちに訊いても、この距離では気配も感じ取れないだろう。もう少し近づくしかない。
峠を越え、ユング村で一泊する。アルスとの旅では日暮れに村まで辿り着けなくて野宿するハメになった。一国の姫君に野宿などさせたくはなかったのだが、どうにもならなかった。
今回は魔族もいない旅だから、あの時ほどの疲労感はない。ひと晩休んですぐにヴァイゼの町に向けて発った。
その道中、ウーヴェの表情がどこか険しく感じられたのだ。
それはヴァイゼの町が近づくほどに険しくなっているようにも思われる。何かが気がかりなのでは――。
「ウーヴェ殿、どうかされましたか?」
ラザファムが声をかけると、ウーヴェはハッと表情を改めた。
「すみません、少し考え事をしておりました」
「その考え事というのは、心配事なのですね」
ラザファムが問いかけると、ウーヴェは戸惑いつつも小さくうなずいた。
「ええ。……家のことです。このような時にすみません」
彼も貴族だ。家のことと言っているが、それは小さな家庭での蟠りではないだろう。
「それは僕に話しても差し支えないことでしょうか?」
ラザファムはそれを言ってからグンターを気にした。グンターは苦笑する。
「私はお二方とは立場がまるで違います。何を知ったところで私の言葉に重きを置く者はいないでしょう。もちろん、他言するつもりはありませんが。ええ、愛息に誓って」
グンターはナーエ村の元村長だが、貴族ではない。
領主から村の管理を任されていたに過ぎず、身分は平民である。罪人でなかったとしても、貴族間の話に関わりは持てないだろう。
「グンター殿は口外されませんよ。もちろん、僕も」
それでも、ウーヴェは迷った挙句にかぶりを振った。
「お二方が信用ならないということではなく、調査を優先する時ですから、今はできないのです。けれど、機を見てお話させて頂ければと思っております。もともと、そのつもりでした」
調査が終わった帰り道にならば話したいということだろうか。
これを言った時のウーヴェが思い詰めて見えたので、ラザファムも今は止そうと思った。
「わかりました。今は調査のことだけを考えましょう」
「ええ。お気遣い頂き、ありがとうございます」
気にはなるけれど、ウーヴェがそう言うのならば仕方がない。
ラザファムたちは口数も少ないままヴァイゼの町を目指した。




