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Blue Bird Blazon ~アルスの旅~  作者: 五十鈴 りく
第5章 祈り

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46◆引力

『あなたは大事な方だ。無理をしてはいけない。すぐに戻って』


 アルスはイルムヒルトに語りかける。けれど、イルムヒルトはその声を受け入れなかった。聞こえていないのだろうか。

 イルムヒルトが魔山の上に素足をつけると、アルスまで体が痺れるような感覚がした。


「ゲオルギア様はお怒りでしょうか。けれど、この国の、私の他の命はお救いください」


 その中に、一番の想いを寄せる存在がいるから、イルムヒルトは必死で祈るのだろうか。

 魔山が、猛るような音を響かせる。それが風の音なのか、ゲオルギアの怒りなのか、それはアルスにもわからない。


「どうか……」


 イルムヒルトの涙がはらりと岩肌に落ちる。

 アルスはそんなイルムヒルトに再び声をかけた。


『大事な人を護りたいのなら、自分のことも大切にするんだ。あなたに何かあったらきっと悲しむから』


 あの男は、アルスからクラウスを奪った。そして、クラウスが戻った代わりに今度はナハティガルが消えてしまった。アルスにとっての悲しみをたくさん生み出してきた。


 けれど、あの憎むべき敵のことでさえ、愛する者はいるのだ。

 世界には色々な者が生きている。


「……あなたは、ゲオルギア様ではありませんね?」


 アルスの声に、イルムヒルトは初めて反応した。しかし、それは落胆でしかなかった。


 ゲオルギアからの気遣いであれば、イルムヒルトは泣いて喜んだかもしれない。

 アルスの声では、ただの励ましにもなれない。


『すまない。でも、あなたには恩があると思っている』


 クラウスを帰してくれた。

 イルムヒルトが止めてくれなければ、クラウスは再び連れていかれてしまったことだろう。


 アルスが名乗っても、イルムヒルトは喜ばないだろう。だから、名は告げないままで寄り添う。


「わかりません。けれど、私のことはよいのです。私にはもうできることがありません」


 ゴホ、ゴホ、とイルムヒルトは咳き込む。

 ふと、ナーエ村で治療師の男が、魔に耐えきれずに消えたことをこの時に思い出した。それと同じで、耐性のない者が光に触れたとしたら、体に負荷がかかるのではないのか。


 イルムヒルトは深層の姫君だとクラウスは言っていた。光の気配が濃くなる世界では、さらに衰弱してしまう気がした。そもそも、イルムヒルトの不調はそのせいであるようにも思われる。


『どうして、こんな……。あなたには幸せになってほしいのに』


 それはアルスの本心だった。そうあってほしかった。

 けれど、それはとても難しいことらしい。

 ナハティガルの復活も、イルムヒルトの幸福も、アルスの願いは難しいことばかりなのか。


 山が、ゴゴゴ、と微かな音を立てて揺れていた。

 霊峰とは違い、この魔山で儀式が行われることはない。それならば、ゲオルギアがエルミーラのように目覚めることはないのだろう。もし仮にゲオルギアが目覚めたとしても、ただ拒絶するだけなのかもしれない。


 イルムヒルトが冷たい岩肌に伏す。横たえた体からどんどん熱が逃げていく。山に生命を捧げるように。


『……生きるのがつらいのか?』


 アルスは思わずイルムヒルトに問いかけていた。イルムヒルトはうずくまり、ただ目を細めた。


「ええ、そうかもしれません」


 実らない恋と、責務。

 イルムヒルトにはどちらを向いても救いがなかったのだ。


『でもきっと、あの男はあなたが死んだら嘆くと思う』


 ダウザーは、どんな時でもイルムヒルトのことは大事にしていた。それはイルムヒルトがその忠誠に相応しいからだろう。嘆かないはずがないと思う。


「私は、嘆いてほしいのかもしれません」


 ふわり、と赤い色が見えた。それはまるで火の粉のような。

 その光が労わるようにイルムヒルトを包む。イルムヒルトはハッとして目を開けた。


「お父様?」


 一度そうつぶやき、それから小さく息をつく。


「ごめんなさい、お父様……」


 アルスは、この悲しい姫と共に在って、心をあたためたかった。けれど、それはアルスにはできないことだった。


「あなたは、クラウスの姫ですか?」

『何故わかるんだ?』

「もしそうだとしたら可笑しいと思っただけです。クラウスは光と闇とを行き来しました。そして、どちらにも婚約者と呼ぶべき相手がいた。私たちはまるで精霊王の番のよう」


 イルムヒルトはそんなことを言った。

 彼女は創世神話の正しい解釈を知っているのだ。


 エルミーラとゲオルギア。

 光と闇。


 アルステーデとイルムヒルト。

 双極の、二人。


 エルミーラがアルスに語りかけ、イルムヒルトに向けて送り出した理由はこれなのだろうか。

 自分たちを重ね、手を取り合える可能性を見たかったのか。


『うん、本当だな……』

「王が(エルミーラ)を寵愛したのも同じ」

『そんなことは私たちにはわからないし、関係ないと思う』


 エルミーラから、どちらも違っていいと精霊王は言ったと聞いた。

 アルスの言い分がイルムヒルトには奇妙に思われたのか、小さく笑った。


「関係ありませんか?」

『私たちは私たちだ。他の誰とも違う。だから、私たちは互いを気遣いながら、自分たちが選びたい未来を選べばいいんじゃないのか?』


 アルスの幸せも、イルムヒルトの幸せも願う。

 それがわがままだとしても、両方が叶うように最後まで抗いたい。

 自分を押し殺していたイルムヒルトには、そんなアルスの言い分には驚くだけだったのだろうか。目を瞬いた。


「クラウスがあなたを忘れられなかったのもうなずけます。あなたには不思議な引力があるようですね」

『引力? 強引で、言い出したら聞かないってよく言われるけど』


 それでも、力いっぱい引いて、よい方に進めばいい。

 イルムヒルトは、フッと息を吐いた。寒いのだろうか。


「私はクラウスに、自分のために生きていると見栄を張りましたが、本当は、私にはそのような強さはないのです。私が護りきれないものがあまりにも多くて、だからといって全部を捨てられない。だから、一番最初に自分を捨ててしまいたくなるのです」

『これから、光の強い世界になる。それは私たちのせいだからごめんとしか言えない。でも、これから私たちもできることを探していくから、待ってほしいんだ』


 勝手な言い分なのはわかっている。それでも。


「……この国が衰退すれば、あなた方にとっては暮らしやすい国となるのでしょう?」

『〈魔〉の力は、私たちから見ると強すぎる。あなたたちから見ると、私たちに寄り添う精霊の力は強いのだと思う。それでも、譲り合える方法があればいい』


 レクラムを滅ぼしたピゼンデルが生まれ変わり、ベルノルトは憎しみを和らげた。

 それと同じように、不可能であるようなことにでもなんらかの方法はあるのではないかと今は思える。


 イルムヒルトは、鳴動する山にかき消されそうな声でつぶやいた。


「光の中、弱体化していく国を、ただ放っておいてくれますか?」

『えっ?』

「ただ静かに、緩やかに終息へと向かわせてください。それだけでも、ほんの少しの救いとなります」


 エルミーラは、精霊王の御力が世界に満ちれば、魔の国を人が滅ぼすと危惧した。

 それをせぬよう、ただ触れない。それだけでいいとイルムヒルトは言うのか。


 救えるなんておこがましい。ただそっと、静かに眠らせてくれと。

 終焉を迎え、眠りに就く国で、イルムヒルトはダウザーと静かな時を過ごせるのだろうか。


 もしそうならば、イルムヒルトにとっては悪いことばかりではない。それこそ、命をすり減らしても幸せな時間となる。


『うん……。あなたたちがそれを望むのなら、そう伝える』

「ありがとう」


 イルムヒルトは小さくささやいた。

 それが別れの言葉のようにも思われた。


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