45◆ふたりの母
儀式が成功したのなら、精霊王の御力が世界に満ち、魔の国は衰退する。
つまり、これからイルムヒルトたちは更なる苦難へと追い込まれるのだ。そんな中、アルスは自分の望みだけを叶えようとしている。
我が身を顧みろとエルミーラは言うのか。
イルムヒルトは、悲しみの中でも思い遣りを持ってクラウスを救ってくれた。それに比べ、アルスは自らの未熟さを恥ずかしく思う。あんなに優しい彼女が苦しんでいて、クラウスもそれをわかっているからこそ心が晴れないのだ。
けれど、だからといってアルスに何ができるのだろう。
何もできないただの人間のアルスは、小さな存在でしかない。
――けれど、だからといって仕方がないと言うだけでいいはずがなかった。
「エルミーラ様、魔の国に救いはないのですか? あの国が他の国と共存して行ける方法があるのなら、どうかお教えください」
互いを害さずに、関わり合わずに生きていくことはできないだろうか。
それができたらいいと願う。それこそ、都合がいいだろうか。
それでも、エルミーラは静かに言った。
『あの国は、心を閉ざしたゲオルギアが創り上げた場所』
「もう一体の番の?」
『ええ。わたくしの妹です』
「妹……」
創世神話では精霊王が番を作り出したとされている。それならば、妹と呼んで差支えはないのかもしれない。
『ゲオルギアは猜疑心の強い性質です。わたくしに勝てねば自らには値打ちがないのだと閉じ籠ってしまい、王のお声に耳を傾けようともしません。王は、わたくしたちは違えばいいのだと仰るのに』
アストリッドの幼い顔に憂いを浮かべる。エルミーラは、この世界の状態を良しとはしていないのかもしれない。
「私がエルミーラ様とこうしてお話しできているのは、儀式の効果によるところですか? 魔の国にももう影響が出るのでしょうか?」
質問攻めにしてしまうけれど、わからないことだらけなのだから仕方がない。
『ええ。わたくしは一度眠りに就きました。ただ、こうして年に一度だけ目覚めて王の御力を受けるのです。それが眠りに就く時の約束事でした。儀式の作法はそのために、わたくしから人へ伝えおいたものなのです』
番であるエルミーラを目覚めさせる、それがこの儀式なのだと。この霊峰が墓だといっても、精霊の眠りは人の死とは違うらしい。
『王の御力を世界へ届けて、精霊が行う浄化と同じことが緩やかに世界に起こります。世界はもとの姿を取り戻すのです。――以前の魔の国も、あのような土地ではありませんでした。結果として、あの国は滅びへ向かうことにはなるのでしょう』
世界に光が満ち、闇は消える。
けれど、闇にも生ける者がいる。
「でも、あなた様はそれをお望みではないのでは? だから私にあの姫のことを伝えたのではないのですか?」
『それぞれの子である原初の人と精霊との絆が深まることを願ったように、皆にとって世界が穏やかに過ごせる土地であってほしいと思っています。ゲオルギアが見守るあの国も、世界の浄化によって、他から〈魔〉と呼ばれる性質を奪われることになります。あなたがたと同じ、人はただの人に、獣はただの獣に――今の強靭な力はいずれ消えていくのです。今から世界に馴染むことはできないでしょう。そうした時、人々はあの国を攻めずにいるでしょうか?』
これまでのことを思えば、弱体化した魔の国をこぞって叩こうとするだろう。そんなことはしない、とはとても言えなかった。
人々は魔の国に多くの恨みを抱えている。
けれど、もしそんなことになったら、クラウスはどれほど傷つくだろう。
「魔の国が滅ぶ、というのは、他国の人が滅ぼすということですか?」
アルスの問いかけに、エルミーラははっきりとした言葉を返さなかった。けれど否定もしなかった。
『人を始めとする多くの生物の母であるゲオルギア……そのゲオルギアの子供たちは争い続けるのです』
「ゲオルギア様が我ら人の母であると仰るのなら、魔に染まっていないただの人である我々の声が届くこともありますか?」
『どうでしょう? 精霊は、決して魔に染まることがありません。何故なら、ゲオルギアを母としないからです。原初の精霊は、私が王の御力をお借りして作り上げましたから。ゲオルギアの気配に影響を受ける生物は、彼女が生み出した者だけ。ゲオルギアの子供であれば、なんらかの繋がりはあるかもしれませんね』
――この時、ダウザーが部屋を辞した後、イルムヒルトが弱った体に鞭打ってベッドから降りたのがわかった。
アルスの心はまだあの姫に繋がれていた。
あの足取りでどこへ行こうというのだろう。さっきよりも繋がりは薄く、イルムヒルトの思考までは読めなかった。
イルムヒルトは膝を突き、そして祈るようにつぶやいた。以前見かけたような陣が彼女の回りを囲み、回り始める。
エルミーラはささやくような声で言った。
『彼女はゲオルギアのもとへ赴こうとしています』
「あの山は男性しか登れないと聞いたのですが、違いましたか?」
『ええ。ですから、命賭けで祈る所存のようです』
「……まだしばらく、私は彼女と繋がっていられるのでしょうか」
『あの姫の記憶からあなたの存在が消えない限りは』
クラウスのことがあって、イルムヒルトはアルスの存在を知った。アルスも同じだ。二人はクラウスという接点を持つ。
『けれど、あまり心をすり減らしては戻れなくなりますよ』
戻れないのは困る。
けれど、イルムヒルトは戻らない決意をして進んだ。
アルスは目を閉じ、イルムヒルトに問いかける。




