44◆初恋
暗い。
夜空のような、星屑を散りばめた天井が見える。
これは空ではない。天蓋だ。
仰向けに見上げている。
屋内であることは確かだが、はっきりとは言えなかった。
アルスの記憶にはない場所。
ここは、どこだ――。
シュッ、と衣擦れの音がした。
眠っているのではなく、横たわっている。けれどこの体は、アルスの意思では動かせなかった。
青白い光が幕の外にあり、気遣うような穏やかな男の声がする。
「……イルムヒルト様、眠っておいでですか?」
この声をアルスは知っていた。
ただ、あまりにも優しげな響きに変わってしまっているので勘違いかと思ってしまうほどだ。あの恐ろしい男がこんな労りを見せるなんて――。
この体はイルムヒルトなのか。
クラウスを夫にする予定だった、あの魔族の姫。
「いいえ」
ただ短く、イルムヒルトは答えた。
この時、アルスもイルムヒルトと同じ痛みを抱えた。ギリギリと、絞めつけられるように胸が痛い。
「お加減はいかがでしょうか? 何かお望みでしたら、なんなりとお申しつけください」
「…………」
イルムヒルトは答えなかった。
痛い。この痛みには覚えがある。
それでも、ダウザーは言うのだ。
「イルムヒルト様がご回復なさらないことには、次の魔王は決めかねます。このままでは――」
「この国は滅ぶのですか?」
これを言った時、イルムヒルトは泣いていた。それは自責の念からでもあったし、そればかりでもなかった。
ダウザーは何も答えられないようだ。イルムヒルトは、今度はそんなダウザーに向けて問う。
「私が何故、クラウスを諦めるようにと言ったのか、わかりますか?」
「……彼には未練がないから、ですか?」
この男は、恐ろしいほどに強い癖をしてこんなこともわからないのだ。だから、イルムヒルトは泣くのに。
「クラウスはずっと、婚約者であった姫を想っていました。そしてやっとあの姫のもとへ、愛しい人のところへ戻れたのです。それを引き離すようなことはもう二度としてほしくなかったのです」
イルムヒルト自身が愛しい人と添い遂げられないから。
だからせめて、同じ苦しみを抱いていたクラウスがその沼から抜け出せたのなら、それを喜んであげたいと思った。
イルムヒルトにとって、クラウスは同志だった。気を許し合ったとまでは言わないけれど、互いのことを案ずる程度の間柄ではあったのだ。
叶わない想いを抱えた――。
「イルムヒルト様のお心は優先致します。もうクラウスを連れ戻すことは致しません。……現状ではループレヒトが有力でしょうか」
別の男を宛がうくせに。
この心を優先などしてくれていない。
イルムヒルトはふらつく体を起こし、やっとの思いで天幕を引いた。そうしたら、ダウザーはハッと息を呑んだ。この男でも驚いた素振りを見せるのだ。
「私が誰かを選ばなければ国が滅ぶと?」
「いえ、そのようなことは……」
「はっきり言えばいいのです。男児を産まないなら私に値打ちはないと」
ダウザーは目を細め、イルムヒルトの前に膝を突き、視線を落とした。
「落ち着いてください。そのように申し上げているつもりはありません」
「言っているのと同じでしょう? 魔山を鎮められない私にはそれしか価値がないと」
イルムヒルトの重圧は相当なものだった。それでも、クラウスまで不幸になればいいとは思わずにいてくれた。そのことにアルスは深く感謝するしかない。
ダウザーは、躊躇いながらイルムヒルトの痩せた手に自分の手を重ねた。
目を見つめることはなく、まぶたは伏せられたけれど、それが彼にとっての信頼のようにも思われた。
「私は、ただの人であった時に死にかけ、このまま死にたいと願いました。人など腹の中が汚い生き物で、自分がそれと同じであることが耐えがたく感じました。けれど、死の淵で魔王様に救われ、魔への耐性を持つことからこの魔の国へ辿り着きました。ここは、思っていたような悪しき場所ではなく、私にとっては静かに過ごせる場所でした。死よりも静かな、心休まる時がようやく訪れて、私はここを故郷と思い定めたのです」
イルムヒルトが生まれた頃から、ダウザーは父王のそばにいた。ピゼンデル王族の血を引くと聞くけれど、当人はそれを一切語ろうとしない。過去は葬り去り、生まれ変わって生きると決めたから、と。
ダウザーは、いつでもイルムヒルトを護ってくれていた。
子供を相手にし慣れないダウザーが戸惑うところが好きで、イルムヒルトはいつもダウザーにつきまとっていた。それでも、いつも邪険にはされなかった。苦手ながらにも丁寧に、大事に接してくれていた。
いつでもダウザーにくっつきたがるイルムヒルトだったが、父王はイルムヒルトが成長するとそれとなく釘を刺すようになった。
『お前にはいずれ婿を迎え、子を成すという役目がある』
『はい。私はダウザーがいいです、お父様』
無邪気な娘に、父は渋い顔をするばかりだった。
『ダウザーはこの国に来て長く経ちすぎた。新たな生命を授けるのは難しい。彼ではいけない』
この時は意味がわからなかった。
それでも、ただ無性に悲しかった。
この気持ちを初恋と呼ぶことを自覚したのは、父の言葉が理解できるようになってからだ。
――そばにいて、心を砕いて、護ってくれる。
けれど、本当の願いは聞き入れられない。
それなら、誰を選んでも同じなのに。
ダウザーの手が、イルムヒルトの手を包み込むように動いた。
「ここにはあなたがいて、だからこそこの国が私にとって大切になったのは間違いのないことです」
そんな言葉をくれたからといって、イルムヒルトの想いが報われるわけではない。
だからこそ、余計に悲しくなるだけだった。




