38◆霊峰へ
儀式を行うのは春の精誕祭の時節でなくてはならない。
正式な式典は後日に回すとしても、一行が霊峰に辿り着ける根回しだけは先に整えられる。
トルナリガ大統領は、最低でも国内で反発する一部の過激派を抑えなくてはならないのだ。トルナリガ大統領自身は誠実な人柄のようだとアルスも姉から聞いているが、すべての国民がたった一人に妄信的に従うというのは無理な話だ。
ここで面白いことがあった。
レムクール王国に密入国してアルスに失礼極まりないことを言ったあのピゼンデル人の男たちはラザファムがすでに手を打っていたらしく、拘束されていた。その男の一人がまさに過激派の、それも主要人物の息子だった。
トルナリガ大統領は捕虜とレクラムとを交換すると公表したのだ。等価が見合っていないように思われるが、それが彼の策略だった。
愚かな子息たちのおかげで過激派の面目は潰れた。もう誰も彼らの演説に耳を傾けない。民衆に罵倒されてすごすごと逃げ出すしかないのだ。
レクラムの返還は、ピゼンデルにとって損失ではない。
それは抱えている禍根を手放すのと同じだ。トルナリガ大統領はそれを判断できた人物で、この時に彼が大統領であったことが世界にとってとても大きな意味となった。
――そして、季節が巡って来る。
アルスは約束通り、アストリッドと共に霊峰へ踏み入るつもりだ。
巫女の供も女性でなくてはならない。しかし、巫女の秘技を多くの者に見せるのは得策ではなく、それを言い出したら選べる女性などいないに等しい。
だから結局、守護精霊のいないアルスにベルノルトがシュヴァーンをつけてくれたのだ。シュヴァーンがいればアストリッドも安心するだろう。
どのルートを通ってレクラムに向かうかというと、やはりペイフェール川に沿って行くことになった。上手く流れに乗れるばかりではないが、精霊がついていれば流れに沿ってでも船を進めてくれる。
レクラムに向かうのは、レムクール王国からはアルスとベルノルト、クラウスにラザファム。レプシウス帝国からはアストリッド、ローザリンデ、ヴィリヴァルト、フィリベルト。その他に護衛として双方から数名。あまり大所帯にはしないことになっている。
ピゼンデルはもう、レクラムの所有権を主張しない。ただ警備のためだけに兵を配置しているに過ぎない。それも完全なる受け渡しが終えたらすべて撤退する約束だ。
この船旅の間、ベルノルトがどんな心持ちであったのか、アルスには察することしかできない。たった一日で着いてしまうような距離だったというのに、ベルノルトがここへ戻るまでに二十年以上もかかってしまった。
レクラムの地に眠る非業の死を遂げた魂たちは、王族の帰還を喜んでいるだろうか。
当然のことながら、アルスがレクラム跡地を訪れたのは初めてのことである。
ペイフェール川に船着き場があるわけでもなく、精霊の力を借りて飛び、船を降りる。
レムクールよりもレプシウスの帝都の方がずっと遠かった。
まだ到着していないが、アストリッドは初めての旅に疲れ果てていることだろう。母親のローザリンデですら外の世界を知らないのだから。
「これが霊峰……」
遠くから眺めるばかりだった霊峰の麓にいるとは未だに信じがたい。
アルスは首が痛くなるほどずっと上を見あげていた。霊峰の岩肌は薄い鼠色をしていて、風が含む砂はとても細かい。これが砂なのかどうかも定かではなかった。まるで光の粉のようにも見えた。苔などの植物も色が淡く、どこか不思議だ。
ベルノルトはただぼうっと立ち尽くしている。ポタリ、と涙が落ちた。
どんな苦境にも涙など見せなかった彼だから、あの涙には血を流すほどの意味があるように思われる。
それでも、ここへ来られたことで救われたのではないだろうか。
アルスはクラウスとラザファムと一度顔を見合わせ、そんなベルノルトを見守った。




