36◆小さな友
儀式へ向けての支度が着実に進められていく中、とある男が城へ到着した。
グンター・ニコライという男で、しばらくノルデンにいたのだという。クラウスはノルデンを通過しただけで留まっていた時間はごく僅かだったので、彼のことは覚えていない。
白髪交じりの髪に疲れた顔をしているが、もしかすると見た目より若いのかもしれない。頭髪や服装は城へ来る前に整えられたらしく、見苦しくはなかった。
少し瘦せていること、疲労の色が濃いことを除けば、彼自身の人柄も見えてくる。本来であればリーダーシップを発揮するような人間であったのではないだろうか。
彼は違法植物を植えた咎でノルデンへ送られた。そして、それが騙されてのことであり、情状酌量の余地があるとされたのだ。
まったくの無罪ではないが、減刑としてノルデンより戻された。
その彼にアルスとラザファムが会いたがったのだ。それでクラウスも一緒に会うことにした。
改めて事情を調べるまでの拘束場として城の地下牢へ搬送される。アルスは会うと言い張り、地下牢の手前で待っていた。
ベルノルトから、少しだけにしなさいと釘を刺されている。アルスが彼にこだわる理由が兵士たちには伝わっていないのだから。
冷たい石畳の上に立つ、ドレス姿の王妹。こんなにもこの場にそぐわない人物が待っていたことに、ニコライどころか兵たちも驚いてひざまずいた。アルスは表向きの、王族としての優美さで告げた。
「あなたの子を想う心を知り、私も胸を打たれました。あなたの子息は立派な人物へと成長することでしょう。私は彼の行く末を楽しみにしています」
痩せていても、くたびれていても、目の光は失われていない。ニコライには息子という希望があるのだ。
「どのような理由があろうとも、法を犯したわたくしめのような者に、そのような寛大なお言葉を頂けますとは望外の喜びにございます」
搬送されていくニコライを見送り、クラウスはアルスとラザファムと共に日の光の下へと戻った。
「彼がコルトの父ですか。似ているような、あまり似ていないような」
と、ラザファムが苦笑している。アルスも微笑んでいた。
「そうだな。今は似ていなくて、コルトが成長するたびに少しずつ似ていくのかもな」
クラウスもそう思う。二人から話に聞いたコルトという少年――。
実は、クラウスも陰から見ていたから知っているのだが、その話は二人にしていない。呆れられそうだから、一生しないかもしれない。
なんてことを思いながら、地下から出てこうとすると、ブーツの上に黒い塊が乗っていた。
振り払いそうになったが、その黒い塊が蜥蜴であったから、クラウスは思い留まった。手ですくい上げ、掌の内に乗せてやる。どこか茂みに逃がしてやろう。
シュランゲと一緒に過ごしていたから、どんな蜥蜴も彼に見えてしまう。シュランゲよりも小振りだけれど。
アルスはラザファムと話していて気づかなかったが、不意に振り返った。
「クラウス、どうかしたか?」
クラウスの歩みが遅れているから気になったのだろう。アルスに向けて首を振り、少し笑った。
「いや、靴紐が解けただけだ」
「そうか。なあ、後で稽古をつけてくれないか? 私もずっと剣を振るっていないから、久々に手合わせしたいんだ」
「いいよ。でも、俺もなまっているから、俺の方が負けたりして」
「大丈夫。それはそれで嬉しいから」
そんなことを言って笑うアルスが眩しい。もうアルスが絶望することがないように寄り添わなくては――。
アルスが着替えてくると言って部屋に戻り、ラザファムはベルノルトのところへ行った。
クラウスは茂みの前で蜥蜴を乗せた手を開いた。蜥蜴は随分と弱っており、まぶたを閉じている。
その目をうっすらと開いて、そして言った。
「クラウス様」
まさか、と息を呑んだ。しかし、この声は――。
「シュランゲ……」
この光に満ち溢れたレムクール王国の王城へ、魔族であるシュランゲが入り込んだ。以前、クラウスと行動している時でさえ、旧レクラム跡地とレムクール王国の王城は避けていた。ダウザーならばまだしも、さすがにここへ来て無事に戻れる魔族はそういない。
小さいのは、力を使いすぎてしまったからだろうか。ナハティガルの浄化の光によってダメージも受けていたのかもしれない。
「自力での、移動は難しく、あの者に、ついて、きたのですが」
ニコライはノルデンにいた。魔の国に戻るため、疲弊したシュランゲはあの場所から北上し、ノルデンへ向かったと考えられる。そこでニコライが王都へ戻されると聞き、それについてきたというのだろうか。
「シュランゲ、この場所では苦しいだろう。どこか、別のところへ――」
別のところとはどこだ。クラウスも自分で言っておきながら戸惑った。
シュランゲはまぶたをピクピクと動かすだけだった。
「いいえ。よいのです。イルムヒルト様が、お倒れに、なって、滅びは、もう、避け、られませ、ん」
「イルムヒルトがっ?」
驚いたものの、あのシュミッツ砦での出来事が原因ではないのか。あれからイルムヒルトは回復していなかったというのだろうか。
だとするのなら、それはクラウスにも責任があったはずだ。彼女はクラウスを助けてくれたのだから。
愕然としているクラウスに、シュランゲは言葉を絞り出す。
「ダウ、ザー様は、イルム、ヒルト様のおそばにおり、ます、が」
あれからダウザーが何も仕掛けてこなかったのは、イルムヒルトのそばを離れられないからなのか。
思えば、イルムヒルトはあの城から出たことが一度もなかったように思う。深窓の姫君は、魔の国以外の外気には毒されるものなのだろうか。
シュランゲは、クラウスに助けを求めにきたのだと思った。けれど、そうではなかった。
悲しいくらいに優しい言葉をくれる。
「あなたに、戻って頂きたく、参ったのでは、ございません。最後に、ひと言申し上げ、たかっただけ、なのです。クラウス様の、想いが、通じましたこと、お喜び、申し上げます。お会いできて、うれし――」
ザラリ、とシュランゲの体は崩れ、灰になって掌から風に攫われた。
「シュ――」
まるでクラウスが夢を見ていただけだとでもいうように、跡形もなく消えていなくなってしまった。
手の震えだけが治まらない。
戻らなくていいと、これでよかったのだと、シュランゲはそう言ってくれるのか。
命がけでそんなことを言いに来たのか。
――ダウザーが不慣れな魔王候補者たちにつけた世話役の魔族。ループレヒトたちは世話役の魔族とはすぐに距離を置いた。信用しきれなかったからだろう。
それでも、クラウスはレムクール王族の守護精霊のようだと、話し相手にシュランゲがいてくれたことが慰めになっていた。
シュランゲは確かに魔族だけれど、やはり〈悪〉とは違う。
どうして、共に生きられないのだろう。クラウスはただそれが悔しかった。




