32◆ピゼンデルの決断
当然、トルナリガ大統領とベルノルトは初対面である。ただし、トルナリガ大統領はベルノルトの思い描いていた通りの人物だった。
堂々とした体格、まっすぐな視線。撫でつけた黒い頭髪には白い筋が走っているものの、活力が伝わってくる。
トルナリガ大統領の目は、逸らすことなくベルノルトを捕らえていた。ベルノルトの方にどんな感情があろうとも立ち向かうというのだろうか。
ベルノルトが表情を消すと、トルナリガ大統領は数歩前に出て一礼した。
「ピゼンデル共和国大統領、デトレフ・トルナリガと申します。こうして会合の場を設けて頂きましたこと、感謝申し上げます」
低く、落ち着いた声だった。
けれど、それがなんだと言うのだと、ベルノルトはすさんだ心で思う。
「勘違いされては困る。この会合は世界のために行うもの。遺恨を清算するためのものではない」
もしここで和解を夢見ているのだとしたら虫がよすぎる。
それでも、トルナリガ大統領は動じずにうなずいた。
「ええ、それでも。今日は大きな一歩だと考えます」
不穏な空気が漂うのを、ディートリヒが手を振って制した。
「各々方、席に着かれよ。言いたいことはあろうが、まずはそれからだ」
ここがディートリヒの治めるレプシウス帝国の土地である以上、彼の言葉に従うべきだ。その状況を作るためにこの場所を選んだのだから、二人とも自分たちの感情を優先するのではない。
気づかわしげなトルデリーゼをエスコートし、ベルノルトも席に着く。これは歴史的な瞬間ではあるのだ。
この場の、なんとも表現しがたい空気感は忘れない。まるで水に沈められたように息が覚束ない。
外の音もしなかった。この部屋だけが独立している。
やはり、まずその静寂を破ったのはディートリヒだった。
「これより始められる会合は、今後の世界を左右する。各々方、可能な限り世界のために情報を出し合って頂きたい。どうか腹蔵なきよう頼む」
「ええ、もちろんです。陛下のご尽力に感謝致します」
トルデリーゼの穏やかさがベルノルトには救いだった。いつでも、女王であり妻である彼女を前にして愚かな自分であってはならない。
「まず本題に入らせてもらうが、大司教。この世界に満ちるはずの精霊王の御力は歳月と共に弱くなっているのではないか?」
ディートリヒはかなり踏み込んだことを言った。ヘンデル大司教は白い眉を跳ね上げたが、それが妙にわざとらしい。
「お言葉ですが、陛下、それは聞き捨てなりませんな。我らセイファート教団は祈りを欠かしてはおりませぬ。そのようなことが起こり得るとは――」
「茶番はよい。セイファート教団のやることが表面上の型に過ぎぬことなど承知の上だ」
「……なんと仰せですか? 我らの祈りを無意味だと?」
「祈りだけでどうにかなるなどと自分たちですら考えておらぬだろうに、それで各国の統治者を納得させることなどできると思うか? 相手を見くびり過ぎだな。例えこのようにうら若く麗しい女王であってもな」
ディートリヒの薄い笑いを含んだ声にトルデリーゼがほんの僅かに目を細める。それから、ヘンデル大司教に向けて穏やかに告げる。
「どうかお気を悪くなさらないで頂きたいのですが、責めるつもりは毛頭ございません。ただ世界のために真実を共有せねばならないと考えております。どうぞお力添えをお願い致します」
トルデリーゼは若く嫋やかだが、こうして身近に感じれば感じるほど蔑ろにはできない女性だ。その優しさ、真摯な心が伝わるのだから。
ヘンデル大司教は小刻みにうなずいた。
「ええ、これ以上魔の気配が濃くなってしまえば、取り返しのつかないことになるのは誰もが同じです。この首をかけて協力致しますとお誓いしましょう」
「ありがとうございます、ヘンデル大司教」
トルデリーゼに任せるために煽ったのだとしたら、ディートリヒは性格が悪い。
――もちろんそれは知っていたけれど。
人の妻を使うなとベルノルトは不満だったが、そんな視線をサラリと躱してディートリヒはトルナリガ大統領に話を振った。
「さて、トルナリガ大統領。ピゼンデルにおいて魔族の影響というのはどの程度あるのだろうか?」
「我が国は魔の国から最も遠い土地です。きっと一番影響は少ないのだと思われますが、空から飛来することはございます。それでも、今のところは兵力で撃退できております。……今後、力を持った魔族が現れた時にはわかりません。不安を訴える者も少なくはございません」
トルナリガ大統領は、ひと言ひと言をとても慎重に発していた。そして、ベルノルトの息遣いまで聞き逃すまいとしているほど意識を向けられているのも感じた。
「なるほど……」
ヘンデル大司教が含みのある声でつぶやく。ディートリヒは長い指で机をコツンと叩いた。
「ひとつ訊ねたいのだが、ピゼンデルでクーデターが起こった後に魔族が増えたのではないか?」
それを言われた途端にトルナリガ大統領はハッと息を呑んだ。
「ええ、そうです。国が変化を迎え、乱れたことを魔族も感じたのでしょう。隙を逃さずやってきました」
「そうではないな。むしろ、十年前、レクラム侵略の前はどうだった?」
「……今よりも多かったように思われます」
ディートリヒは何を言いたいのだろう。トルナリガ大統領は何かを察したのだろうか。
皆がベルノルトを気にしているように思えた。それはレクラムの名が出たせいなのか。
「レクラム侵略は先のピゼンデル国王が行ったことではあるが、裏には魔族が絡んでいたと考えたくなることが多い」
トルナリガ大統領はディートリヒの発言の意味を考えあぐねていた。
けれど、ヘンデル大司教はもしかすると察したのかもしれない。
「レクラムの民が護ってきた霊峰は、世界に精霊王の御力の受け口なのだ。あの地を正しく管理せねば、この世界は今に人の住めぬ土地となろう。それこそが魔族の狙いであったと考える。魔族はピゼンデル前国王を唆し、レクラムを滅ぼしたのではないかと。それならば、裏で動かせる前国王がいたことで魔族は貴国を襲わなかったとも考えられる」
「まさか、そんなことが……」
トルナリガ大統領は顔色を失ったが、ディートリヒが語る推測は正しいのではないかとベルノルトでさえもが思った。
――レクラムの民を虐殺した。これは、巫女を消し去りたかったのではないだろうか。だからこそ、王族であるというのにベルノルトは生かされた。男児であるベルノルトは巫女になることもなく、その知識すらない。なんの脅威でもなかったのだ。
「単刀直入に言うが、世界のために霊峰エルミーラに立ち入る必要がある。これは極秘に行われなくてはならない。我らが霊峰へ向かうことを邪魔立てせぬように頼みたい」
この時、ベルノルトはまっすぐにトルナリガ大統領を見据えた。
レクラム跡地も霊峰も、ピゼンデルの所有地だと主張しようものなら許さない。そんな思いを込めていた。
トルナリガ大統領はそんなベルノルトの視線から逃れることはなかった。まっすぐに決意を込めて目を逸らさずにいる。
「我が国が交渉の材料として持ち得るものはそこです。我々は過去の過ちを認め、レクラム王族であるベルノルト様にレクラムの地をお返しする所存にございます」
この発言に目を剥いたのはベルノルトばかりではなかった。
「自分が何を言っているのかわかっているのだろうな? 一個人の裁量で決められることではなかろう」
けれど、トルナリガ大統領は発言を撤回することはなかった。
「話し合いは重ねて参りました。今日、この会合ではっきりとしました。あの霊峰は尊く、我々は畏怖するばかりで、皆が近寄ろうとはしません。どうしたわけか、そんな気が起こらないのです。何故、レクラムに侵略することができたのか、当時の熱狂はやはり何かがおかしかったように思います」
何かの罠だろうかとベルノルトは考えた。心臓が落ち着かない。痛いほどに騒いでいる。
しかし、これだけの面子を前に口にしたのだ。冗談では済まされない。
「その判断は懸命と言えよう。霊峰は聖地だ。霊峰を正しく保たねば、世界を整えることはできぬのだ」
ディートリヒもローザリンデに母の故郷の土を踏ませてやりたいという思いもあるのかもしれない。もちろん、アストリッドが行う儀式が最重要ではあるが。
ヘンデル大司教は霊峰の重要性についてあまり驚いているふうではなかった。
彼はセイファート教団が霊峰の重要性を隠すための隠れ蓑であることもわかっているのだ。




