24◆我慢
「霊峰へ向かうためにはピゼンデルの大統領との面談が必要になってくる。その時、貴君は自らの感情よりも優先せねばならぬことがある」
ディートリヒがそれを言わずとも、ここまでくればベルノルトも理解している。静かにうなずいていた。
「それでも、私にはレクラムの地を所有する権利を主張する。それは感情からではなく、話を聞いたからこそのことだ。ピゼンデルが霊峰を有していたのでは満足に儀式を行うことができない。それでは同じことの繰り返しだ」
「それで会合が失敗した場合、武力で叩くしかなくなるというのはナシだ。人同士が争っている時ではないからな」
これだけの武人を揃え持つのに、ディートリヒは戦を好まないようだ。もちろん、魔の国が最大の脅威であるからだろう。
ベルノルトも民をすべて失った王族なのだ。戦の悲惨さは身に染みている。
「そんなつもりはない。そんなことをした日にはトルデリーゼに泣かれてしまう」
「ああ、いい組み合わせがあったものだな」
と、ディートリヒがほっとしたように笑った。
本音では戦争に発展する可能性を心配していたのだろう。
「そういうことだから、三国首脳会合が必要だ。話を進めるが?」
「承知した。セイファート教団関係者も必要になるだろう」
「場所は公平なところでとなると我が国が適当か」
「その方が助かる。私がピゼンデルを訪れるのも、向こうがレムクールに来るのもまだ抵抗がある」
「ならば、そのように取り計らおう」
――話が大きく動いていく。
各国間においては重要な取り決めとなるのだが、アルスはその会合に出席できないだろう。姉とベルノルトだけが行き、アルスは留守番だ。
ナハティガルのためにできることをしているはずなのに、とてもまどろっこしい。
もどかしさに身震いしてしまう。この調子だと何年もナハティガルには会えないのだろうか。
この時ふとクラウスの横顔を見遣ると、クラウスの表情が険しく感じられた。
「どうかしたのか?」
アルスに声をかけられて、クラウスは我に返ったようだった。
表情を和らげてアルスに目を向けた。
「いや、大変なことだなと思って」
「うん。ここへ来て驚きの連続だよ」
それでも、クラウスはまだ何か心配事があるようだった。
「また魔族が来ると思っているのか?」
ボソリと訊ねてみると、クラウスは苦りきった顔をして軽くうなずいた。
「各国の重要人物が一堂に会するなんて、そうそうあることじゃない。危なくはないかと少し心配ではあるよ」
「対策は練るだろうけど、確かにそうだな」
そんな話をしていると、ディートリヒとベルノルトの会話は終わったようだった。
ベルノルトはアルスたちのそばへ来て告げる。
「さあ、帰国しよう。トルデリーゼたちが待っている」
「うん。シュミッツ砦へ戻る?」
「いや、レプシウスから船でペイフェール川を下ってみよう。かなり日数の短縮ができる」
「えっ? 本気で? 南の方からレムクールに渡れる箇所なんてないのに」
「だから、ペイフェール川を通ってレプシウスを抜け、トーレス村側の岸に出る」
ベルノルトはとんでもない提案を涼しい顔でしてきたのだった。
「レプシウスの船でトーレス村のそばまで行けるのか?」
「もちろん行けないよ。行けるところまで送ってもらって、あとはシュヴァーンたち精霊に力を借りる」
「ああ、なるほど」
ベルノルトだからこそできる短縮ルートである。アルスたちは峠越えまでして大変だったのに。
あの時、峠ではぐうぐう寝ていたナハティガルがやっと起きたのだった。あの時はナハティガルと別れることになるなんて知らなかったから、寝ているだけのことでさえ不安になっていた。それも今思い出すと遠く昔のことのようだ。
「船を手配してもらうから、アルスたちはしばらく部屋で休んでいてくれ」
「わかった」
この話をしている時、クラウスはまだぼうっとしているように見えた。
アルスの視線を感じて取り繕うけれど、そんなことではごまかされない。
クラウスはアルスを部屋まで送り、それとは別に用意された客室へ行こうとした。アルスはそれをさせず、クラウスを部屋に引っ張り込む。
「アルス?」
戸惑いつつもクラウスは逆らわない。アルスはクラウスを部屋に入れ、手を放した。
「全部話してくれるまで部屋から出さないからな」
「えっ?」
「あのダウザーって魔族がまた来るかもしれないって心配しているのとは違う。何か別のことを考えている。それは家のことか?」
クラウスの父親はクラウスを捨てたも同然だ。国に帰ればそんな家族と再会する。それを思い悩んでいるのかと思った。
けれど、クラウスの悩みはそれとは違った。
「家のことはいいんだ。ダリウスが継ぐだろうから。恨んでもいないし」
「じゃあ……」
クラウスを見上げると、本当に困った顔をしていて、そんな表情をさせているのは自分なのかとアルスは罪悪感を覚えた。
それでも、アルスはクラウスの服の腕の辺りを握り締め、クラウスの胸に額を寄せた。不安から、顔を見て言えない。
「私に言えないなら誰に言える? ラザファムでも、誰だっていい。一人で抱えるのは駄目だ。クラウスが暗い顔をしていると、また向こうに引っ張っていかれそうな気がしてしまうんだ」
不安になるなという方が無理だ。
クラウスがこうして戻ってきてくれたことも未だに信じられないくらいだから。
すると、クラウスはそんなアルスの腰を引き寄せた。抱き締められたことは何度もあったけれど、こういう触れ方は初めてかもしれない。
驚いて顔を上げると、クラウスは熱の籠る目をしてアルスを見つめていた。顔がとても近い。
「最初にこれだけは言っておくけれど」
「う、うん」
「俺が愛しているのはアルスだけだ」
「えっ、あ、うん」
かなりはっきりとした言葉をくれた。
アルスの方が今、こんなふうに言われるとは思っていなくて戸惑う。恥ずかしくてうつむきたくなったけれど、今うつむいたらクラウスの顔に頭突きをしてしまうのでできない。
クラウスはこの距離で急に表情を曇らせ、そして言った。
「でも、俺は別の女性の夫になるかもしれなかった」
「は?」
「魔王になるっていうのはそういうことだ」
唖然と目を見開いているアルスをクラウスは痛いくらい抱き締めた。
「彼女のことは愛していない。でも、幸せでいてほしいと思っている。そんなふうに思ってはいけない相手かもしれないけれど」
「……もしかして、あの砦に来た姫?」
アルスは苦しいながらにそれを言った。そうしたら、クラウスがうなずいた。
「魔族だな」
また、うなずいた。
「でも、〈悪〉って気がしなかった。魔族なのに」
そうしたら、クラウスが驚いたようにアルスの顔を見た。アルスはそんなクラウスに笑ってみせる。
「あのままだったら、クラウスはあの姫と結婚したのか。そうなっていたら、私はずっと独り身になるところだったな」
クラウスの顔が近づき、唇が触れそうになった。こういう時にどう振舞えばいいのかはよくわからない。緊張したアルスが身構えてしまったせいか、クラウスはそれ以上近づかなかった。
顔を離し、それからアルスの肩に額を預ける。ため息と共にクラウスは言った。
「…………ごめん」
「何が『ごめん』なんだ?」
鼓動が速まっていることを知られたくないが、多分筒抜けだろう。
クラウスは首を起こすと、わざと作ったようなしかめっ面になった。
「二人きりになって調子に乗った。もう少し我慢するつもりでいるのに」
「我慢って……」
「俺だけ幸せじゃナハに悪いから、ナハが復活するまでもう少し我慢しようって思ってる」
「何を我慢するんだ?」
キスを我慢するのだろうか。クラウスがそうしたいのならいいけれど。
「色々。本当はもっとアルスに触れていたいけど、それを我慢する」
口に出して言われると気恥ずかしい。
アルスが照れているなんて、ナハティガルがいたら笑いそうだけれど、クラウスなりに思うところがあるらしい。
アルスに抱えている思いを打ち明けられてほっとしたのかもしれない。クラウスは少し肩の力が抜けたようにして笑った。




