23◆書庫〈下〉
奴隷のようだったベルノルトは、この国に来てようやく自分の希望通りに動くことができるようになった。
その時に最優先で選んだのは本を読むことだったという。寝食も忘れて本を読みふけったと聞いた。
人一倍学ぶことに貪欲だったベルノルトでも、ナハティガルを蘇らせる方法など知らないようだった。
それならば何故、ラザファムはどこかで読んだと思ったのだろう。
いくらベルノルトでもこの蔵書のすべてを読破したわけではないから、どこかに見落としがあるはずだ。
ラザファムは片っ端から本を開き、見当たらないと判断したら階を移った。下へ下へと。
それがどれくらいの時間であったのか、自分ではもうわからなかった。
長い間外の光を見ていないような感覚だったけれど、まだ何も見つけられていない以上、戻りたくはなかった。
次第に本を重たく感じるようになり、棚の前にへたり込んで本を広げる。
目がかすんでいた。一度戻って食事と休息を取るべきだとわかっているけれど、それが億劫だった。
本棚にもたれかかると、エンテが心配そうに尻尾で触れてきた。少しだけこのまま眠ろうかと思って目を閉じた。
何かがしたいと思うのに、何もできない。自分はいつでもこうだ。
――べたん。
物音がして、ラザファムはハッとまぶたを開いた。
「もう! わたしの守護精霊なのに、どうしてわたしよりもそっちを優先したの!」
「そうは仰いますが、重たいからと私にこれを持たせたのはパウリーゼ様です」
「持っていても助けて頂戴!」
書庫の奥深く、鼠の足音さえも聞き取れたような静寂が破られた。
「パウリーゼ様……?」
パウリーゼが守護精霊のアードラを引き連れてきたらしい。こんな湿っぽい場所を好む姫ではないはずだが。
しかも、薄暗いせいで転んだらしい。ラザファムがぼうっとしていると、アードラの放つ明りが見えた。
白く優美なアードラは、長い首にバスケットの持ち手を通されていて、なんとも滑稽なことになっていた。
転んだ際に崩れたのか、パウリーゼの金髪を飾るリボンがずれている。パウリーゼも明かりを頼りにラザファムを見つけたようだ。
幼い顔をパッと輝かせる。
「ここにいたわね!」
「パウリーゼ様、どうなさいました?」
喋るのも楽ではなかったが、無視するわけにも行かない。かすれた声で返すと、パウリーゼはアードラの首からバスケットを抜き取った。
「あなたが出てこないから食事を持ってきたのよ。根を詰めて死んじゃったらどうするの?」
呆れたように言われた。
水はエンテが出してくれたものを飲んでいたので、それくらいで死なないと思うが、素直に礼を言うしかなかった。
「すみません。ありがとうございます」
「はい。手軽に食べられるものにしておいたから」
パウリーゼは埃だらけの床の上に座り、膝にバスケットを乗せて開いた。中からバターと小麦の匂いがする。紅茶も持ってきてくれたらしい。いや、持ってきたのはアードラなのか。
「何か見つかったかなんて訊かないわ。見つからないから出てこないのでしょ?」
愛くるしく無邪気を装いつつも、この姫は聡い。ラザファムは苦笑する気力もなかった。
「……諦めた?」
そう問いかけられて、ラザファムはかぶりを振った。
「まだ何かあるはずです。もう少し探してみます」
すると、パウリーゼはラザファムの口にパンを押し込んだ。
「そうじゃないわ。アルス姉様のことを諦めたかってこと」
パンで喉を詰めそうになった。そうしたら、素早く紅茶を入れてきたカップの蓋を外して手渡される。
「あなた、自分で思っているほどわかりにくくないのよ? 気づかないのなんてアルス姉様くらいだわ」
ラザファムはその紅茶をコクリと飲んだ。まだ紅茶はほんのりとあたたかく、冷えた体に優しかった。
「失恋の痛手が癒えるまでには四年ほどかしら? 十年越えとか、アルス姉様に恋をしていた歳月を費やしては駄目よ」
「……なんですか、その四年って」
もうパウリーゼの言動には驚かない。
そのつもりだったのだが、そうは行かなかった。
「四年あれば、わたしが素敵な女性に育っているからよ」
にっこりと笑って言われた。アルスとは似ていない、自分の可愛らしさを完全に理解した微笑みである。
「…………」
「あなたの想いが成就するならそれはそれでいいと思ったけれど、アルス姉様はクラウスがいいんだから仕方ないわ。それと、アルス姉様が振ったせいで、わたしの婚約者にクラウスの弟のダリウスを推されているのだけれど、わたしだって自分の婚約者は自分で選ぶの。わたしがあなたを選んだっていいでしょう?」
「あの、それは、その、僕ではあなたと釣り合いが取れておりませんので」
いつでもパウリーゼは突拍子もないことを言い出すが、これに比べたらまだマシだった。ラザファムは体に食べ物を入れて生き返った直後に呼吸が止まりそうになっている。
けれど、パウリーゼは至って真剣なようだった。幼い顔立ちのまっすぐな眼差しに射貫かれる。こういうところはアルスと似ているのかもしれない。
「じゃあ訊くけれど、世間は最初からベル兄様がトルデ姉様に相応しいって評したかしら? アルス姉様とクラウスの婚約を破棄させようとしたのは? ほら、どっちも確実に周囲が認めた相手を選んでなんかいないじゃない。わたしだって戦えるわ」
安全な、小石の転がっていない道が好きなはずの末姫が戦うと言う。
ラザファムはどう答えていいのか戸惑いつつも、この姫を傷つけるようなことは言いたくなかった。
「アルス姉様以外は考えられないなんてえり好みしていると、そのうちにグロリアみたいなのを押しつけられるんだから」
「あなたという人は……」
ため息が漏れる。本当に、無邪気な顔をして事情に通じているのがすごい。
「まあいいわ。結論は四年待ってあげるから。それよりも、あなたの探し物のお手伝いをしたいのだけれど?」
アルスでも手伝えないのに、まだ幼いパウリーゼには荷が重い。気持ちだけで十分だ。
「専門知識が要ることですので、こればかりは自分で探すしかありません」
「ナハティガルを蘇らせる方法でしょう? それって本当にあるのかしら」
「昔、そのような内容の書に触れた気がするのです。どこで読んだのかも覚えていないのですが、それに該当する記載を探さないと……」
「ベル兄様もどんな本かは知らないの?」
「はい」
「精霊関係でベル兄様が読んでいない本なんてあるかしら。故郷のレクラム王国に関する物も全部読んでいるみたいね」
「そうでしょうね。僕の記憶違いでなければいいのですが……」
本当にそんな本があったのか、あまりにも否定され続けて自信はすでに風前の灯火ほどに頼りない。
それでも、パウリーゼはその消えそうなラザファムの灯火よりも輝きを放って見えた。
「読んだと思うのなら自分を信じましょう。でも、その前に少し眠るといいわ。頭が働かないもの」
「ですが……」
「あなたが休んでいる間にわたしが探すわ。いいから眠りなさい」
パウリーゼは有無を言わさぬ調子で畳みかけてきた。
エンテも横でおろおろしている。レムクール王族であるパウリーゼに口答えはしたくないのと、ラザファムを心配してくれているのも本当だろう。
「では、少しだけ……」
限界だったのかもしれない。ラザファムは目を閉じた後のことを覚えていない。
再び目覚めたのは、パウリーゼに揺さぶられた時だった。
「ラザファム、本を集めてきたのだけれど」
ハッとしてもたれていた本棚から体を浮かせると、パウリーゼは自分の座高よりも高く積み上げた本の隣に座っていた。その本の塔にはアードラが停まっている。
普通の子供よりも高い水準の教育を受けているとはいえ、パウリーゼに理解できるものではないだろう。ただし、パウリーゼが集めてきたのは精霊関係の本ではなかったのだ。
どれも暗色の背表紙の、どこか開くのを躊躇う重みがある。
「これは――」
「精霊関係の本をこれだけ探しても見つからないのなら、違う方向に目を向けるべきではないの?」
その発想はラザファムにはなかった。
パウリーゼの柔軟性に驚かされる。ふんわりと優しい容姿をした姫が抱えている書物はすべて魔の国、もしくは魔族に関するものである。
「いっそのこと真逆を攻めてみましょうよ」
そう言って、末姫は笑った。




