17◆均衡
レプシウス帝国は、その建造物ひとつ見てもレムクール王国と比べてどこか武張った印象を受ける。
それというのも、精霊との直接の繋がりがなく、人の力がすべてであったからだ。ヴィリバルトほどの武人はそういないとしても、追随する後続が次々と育っているのではないだろうか。
剣術好きのアルスにはとても興味深いが、今はゆっくり親睦を深めている暇はない。
そのヴィリバルトでさえも、レムクール王族を二人連れているとあっては緊張しないということもなかったらしい。口数も少なく、気を張り詰めていた。
非公式である以上、不用意に馬車から降りるわけにも行かず、兵士たちと同じ携帯食で腹を満たす。
その日の晩には帝都に入ることができた。
帝都ツェントルムは日が沈みかけていても、都全体がどこか明るい。ほんのりと発光する岩石を切り出して建造物の一部に使用しているようだ。
宵闇の中、薄青く仄光る城下町はとても幻想的だった。その往来をヴィリバルト率いる軍隊の馬車が行く。
馬車は兵舎ではなく宮殿の中へと入って行った。
「まあ、私の場合この格好なら誰だかわからないだろうな」
今のアルスはお忍びのための平服だ。こんな格好で隣国の姫が来たとは思われないだろう。
皇帝に謁見する姿でもないが、もともとアルスが呼ばれたわけではないので気にするのはやめよう。
「私は服よりも髪や目の色でそれとわかるかもしれない。ローブを目深に被っておくとしようか」
浅黒い肌に淡い緑色の髪、金色を帯びた瞳。
それらを持つ人物はベルノルトの他に見たことがない。レクラム人の皆が同じではないらしいが、王家の血脈にこうした容姿が受け継がれたのではないだろうか。
それならば、もしトルデリーゼがベルノルトの子を身籠った場合、その特徴を少しばかり残しているとも考えられる。
クラウスだけは特に問題もなく堂々とできる。
魔に染まっていた時とは違うのだ。今のクラウスは見目の良さから人目を引いても、奇異の目で見られることはない。
「先に報せを走らせておきましたので、陛下がお待ちのはずです。では、ご案内致しましょう」
馬車から降りたヴィリバルトがマントを捌いて闊歩する。アルスたちはあまり周りに顔を向けずにその後に続いた。
皇帝は多忙を極めているはずだ。急に体が空けられるものなのかと思ったけれど、ディートリヒにとってもこれは最優先の事案らしい。他の予定を潰してでも時間を作ったのだろう。
ヴィリバルトに連れられた場所は謁見の間ではなく、応接室のようなところだった。その部屋の中、皇帝がカーブの美しい背もたれの椅子にふんぞり返っている。
「やっとこの日が来たか」
感慨深いことを言うけれど、態度は偉そうだ。相変わらずだな、とアルスは思った。
ディートリヒはすぐにアルスに気づいて笑いかける。
「そこのおてんば姫はついでだが、まあ歓迎しよう。このままうちの後宮に残ってもいいぞ」
「断る。いつも断っている」
「そうだったな」
これが彼なりの挨拶なのだが、非常に面倒くさい。
ベルノルトとクラウスの顔が引き攣っている。ベルノルトはともかく、クラウスがディートリヒと会うのは初めてだったかもしれない。
「まあ座れ。込み入った話になるからな」
皆が席に着いても、ヴィリバルトだけは座らずに扉のそばに控えていた。アルスもクラウスも帯剣していたけれど、剣を預かるとは言われない。ヴィリバルトとディートリヒはアルスたちに脅威を感じないのだろう。
ベルノルトはフードを脱ぐと、金色を帯びた目をまっすぐディートリヒに向けた。
「この前、レムクールへ来た際にはその込み入った話とやらをされなかったようだが?」
アルスの留守中にディートリヒの来訪があったらしい。パウリーゼが嫌がっただろうなと、ちょっと関係のないことを思った。
ディートリヒはうなずくような仕草をした後で口を開く。
「あの来訪の最大の目的は、貴君と話すためだった。レクラム王国の生き残りである貴君と」
「あなたは何かあるとピゼンデルの肩を持つ。私と話す目的は、ピゼンデルに頼まれてのことか?」
「あの時言ったはずだ。遺恨に囚われていては活路を見出せないと」
国を滅ぼされ、天涯孤独の身になったベルノルトにそれを言うのか。
アルスはベルノルトほどではないにしても、居心地の悪い思いをした。
それでも、ベルノルトは落ち着いていた。
「その活路というのがどのようなものなのか、それを聞こう」
すると、ディートリヒは組んでいた指を解いた。彼もまたベルノルトを相手に真剣勝負をしている。
「今、世界の均衡がかつてないほどに崩れている。それはレクラム王国が滅んだがためのことだ。これについて貴君は何か知っているか?」
ベルノルトは眉間に皺を寄せ、かぶりを振った。
「あなたの言わんとすることはわからない。それから、何故あなたがそんなことを言い出すのかも」
「だろうな」
ふぅ、と小さなため息の音が零れる。アルスもクラウスもただ黙って聞くしかなかった。
「レクラム王国は、かつて霊峰エルミーラを守護するために興した国だろう?」
レクラム王国の国土の中に霊峰がある。霊峰と共にあり、民は大切に敬っていたとベルノルトは言っていた。
「それが何か?」
「つまり、霊峰が穢されたが故に世界の均衡が崩れ、精霊王の御力が届きづらくなったというわけだ」
「それはピゼンデルが霊峰エルミーラを蹂躙したせいで世界が疲弊したということか。やはりピゼンデルは世界を蝕む害虫だ」
ベルノルトが激しい怒りに瞳孔を狭めていた。しかし、ディートリヒはそれを抑えるように目を逸らさない。
「まあ待て。今は過去の責任を問う前に状況を考えるがいい。このままだと世界は衰退するだけだ」
「打開策としては、ピゼンデルから霊峰を含むレクラム王国の跡地を取り戻すことか?」
「そのためにはまた多くの血が流れるぞ。それを行って精魂尽き果てた時に魔族に侵略されないとも言えない。貴君はそれでもピゼンデルを滅ぼすか?」
ディートリヒは、もしベルノルトがそんな選択をするのなら敵対する覚悟もあるのかもしれない。ベルノルトは苦しげにうつむいた。
「過去の私なら、それでも報復をしたいと考えたかもしれない。けれど今の私はトルデリーゼの夫になった。彼女は有り余るほどの優しさと愛情を私に教えてくれた。だから、私を動かすものは憎しみばかりではない」
それを聞き、アルスは姉の偉大さを嬉しく思った。二人が出会えたこともまた奇跡だったのだろう。
「それを聞けて安堵した。どう言ってみたところで、現在はピゼンデルの管理下に霊峰がある。そこへ侵入するのは国土を侵すことになり、世界平和とはかけ離れた事態になるわけだが、今のピゼンデル共和国のトルナリガ大統領は話せばわかる男だ。貴君の頼みならば無下には断らんだろう」
「……私に霊峰へ参る許可を求めろと? それにどのような意味が?」
ずっと黙って聞いていたがアルスは、この時になって口を開いた。
「陛下は誰からこの話を聞いたんだ? セイファート教団関係者か?」
信憑性に欠けるとは言わないけれど、ディートリヒが独自に調べたとは考えにくかった。裏に何が潜んでいるのか、それを確かめたい。
その質問がいずれ来ることはわかっていたのだろう。ディートリヒは首を軽く傾けながら言った。
「いいや。教団の者共にはまだこの話をしておらん。奴らは本質など何もつかんでおらず、奴らがしていることは目眩ましに過ぎんのでな」
「目眩ましって、祓魔術には助けられたけど?」
すると、ディートリヒはクツクツと声を立てて笑った。
「大仰な文言を唱えながら聖水を撒いてな」
「そう。魔獣がのけ反って……」
「あれこそが霊峰の力だ。我が国には霊峰に水源があるペイフェール川の源流が流れる箇所がある。そこの水を精製したものが聖水だ。だから祓魔師は聖水を持たねば役立たずでな、それをごまかすために仰々しい術を披露して見せる」
「げっ」
姫にあるまじき声を上げてしまったが、ディートリヒは笑っている。
結構な機密を漏らしているが、いいのだろうか。
まさか、フィリベルトが先に帰ると言ってきかなかったのは聖水切れのためだとしたら――。
ヴィリバルトを見遣ったが、表情からは何も読み取れない。さすがと言えよう。
この時、クラウスは深刻な顔をして考え込んでいた。
ベルノルトも息苦しそうにしている。ディートリヒの話の内容は目まぐるしすぎた。
「これだけの情報をどのようにして集めたのか、まずそれを聞かせてほしい。レムクール王国ですら……いや、レクラムの末裔である私でもそんなことまでは知らない」
すると、ディートリヒは居住まいを正し、立ち上がった。流れるように歩き、ヴィリバルトに告げる。
「そろそろ連れてこい。隣で待ち侘びているだろう」
「畏まりました」
この場に何者かが加わる。
その人物は世界を変えるほどの何かを知る重要人物であるのだと感じ、アルスでさえも緊張するばかりだった。
ただ――。
しばらくして、ヴィリバルトが扉を再び開いた時、アルスは目を疑った。