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ShortPeace

Last Cigarette

作者: ようこ


 かちん、かちん、と手元のジッポーを弄ぶ。


 前の前の男だったか、そのひとつ前の男だったか、とにかく以前付き合っていた男の持ち物だった。


 別れ際にそっと盗んできたことを、彼はきっと気づいていただろうと思う。

 それぐらいに好きだったのだ。

 今となってはもう顔も名前も思い出せないのだから、おかしい。


 女も30の大台に乗ろうという頃になると、それなりに痛くて苦い経験も積むものだが、その時の別れはわりとあっさりしたものだったように記憶している。


 付き合って何度も寝た男よりも、まだろくに化粧することも知らなかった中学時代の片思いの相手の方をよく覚えているのは、一体どういうわけなんだろう。



 でも、よくよく考えてみると、確かに今よりあの頃の方がずっと必死だった。

 学校の片隅でちらりと後姿が見えた。クラスメイトと談笑しているところを見た。目が合った。

 たったそれだけで一日嬉しくて、その瞬間を頭に刻み込んだ。

 クリスマスのイルミネーションを見るだけで、なんだか急かされるような、待ち遠しいような気にもなった。



 駅までに向かう大通りはすっかりクリスマス一色だ。アーチの中央にはクリスマスカラーの大型リース。

 このイルミネーションを見るたび、苦々しく思うようになったのはいつごろからだったか。


(クリスマスねえ…)


 つい数週間前、付き合っていた彼氏と別れた。

 女友達は『クリスマス直前に別れるなんて鬼畜もいいとこ』だのと憤慨していた。

 それもそのはず、ひとりで過ごすのは私だけで、彼氏の方は私を捨てるほど好きになったかわいい年下の彼女がいるのだから。余計にみじめだ。

とおるはひとりでも平気だろ……でも、由梨絵には俺がいないとダメなんだよ』

 

 馬鹿な男だ。

 男がいないとダメな女なんて本当にこの世にいると思ってるんだろうか?

 そんなにか弱い女なら、恋人のいる男を寝とったりはしない。

 呆れるぐらい陳腐な結末。


『透は強がりだから』

 そう言ってくれるのは、きっと後にも先にもこのジッポーの持ち主だけだ。大きな手のぬくもり。

 そう言えば年上だった。

 かちん、かちん。

 鈍く光る銀色。女にはごつすぎるそれは、なんだか私そのものにも似ている。


 私が煙草を吸うと知った時の、昔の男の露骨な顔。女のくせに、とでも言いたげだった。

 近頃の嫌煙モードで、愛煙家は肩身が狭い。

 1日4度の歯磨きと、常に手元にあるミント。

 匂いがつくのが嫌で、それなりの面倒と共に煙草と付き合っている。

 社内は最近、全館禁煙になった。


 私にも分かっているのだ。  出世したいなら、やめるにこしたことはない。私は結婚してからも、ずっと仕事を続けるつもりなのだから。

 あまりにもありきたりだったが、私が名門私大の著名な教授のゼミ出身者だということ、大学での成績はほぼ全優だったこと、それらは私が女であることと同じく、アドバンテージでもありハンディでもあった。


 まさかいまどきそんなことで何か言われるようなことがあるわけない。何せ誰でも知っている大企業なのだから。

 

 そう思っていた私のケツがまだ青かったというだけの話だ。

 

 さらに、童顔だということで舐められまい、と数年前まではずいぶんと気を張っていた。

 しかし、結局は淡々と自分のすべきことをこなしていけるかどうか、それにかかっているのだ。

 分かってくれる人は分かってくれるし、それでダメなら所詮その程度の相手だったと思うしかない。

 そう気付いて肩の力は抜けた。


 そろそろ煙草もやめどきなのかもしれない。

 そう頭の片隅で思いながらも、コートのポケットへと手を伸ばす。

 ポケットの中でわずかに形がゆがんだショートピースのパッケージに、最後の1本が残っていた。

 小さく舌打ちして、抜き取った。

 もう家に買い置きはない。正真正銘最後の1本だ。


 窓ガラスにカフェの喫煙席でしみったれた顔をした女がうつり込んでいた。

 煙草を手にため息をついている。

 私だ。


 イヴのデートの翌朝、女の残り香をさせて帰ってくる前の男の姿が嫌で、こんなところで煙草をふかしているなんて、自分も案外感傷的だったのだなと苦笑する。

 これだから同棲は考えものだ。

 逃げ道を断つような恋愛はしたくなかったのに。


 駅前のカフェで一人、楽しげに歩いていくカップルたちをガラスの向こうに眺めながら、私はため息を押し殺した。



* * *



 制服の尻ポケットから定期を取り出し、改札を抜ける。

 左腕のダイバーズウォッチに目をやった。

 まだ8時を回ったところだ。

 今日のバイトは、深夜だからまだだいぶ時間はある。

 一度家に帰って寝ておくか。

 そう思いながら、今晩のことを思い出す。

 彼女がいない連中ばかりで、ヤケクソ気味にカラオケへ向かった。

 センター試験も間近に控えているのに、一般受験の奴らはこんなことしてていいんだろうか、と思ったが、推薦でとっくに入学が決まっている俺が言っては角が立つ。

 まあ、始まってしまえばいつも以上のどんちゃん騒ぎで(制服だったからアルコールは飲めなかったが)そんなこと忘れてしまったのだから、ろくでもないといえばろくでもない。

 仲睦まじそうに歩いてくカップルはこの際見えないことにして、家路を急いだ。

 その途中、見慣れた女性をガラス張りのカフェの窓際に見つけて、俺は思わず足を止めた。

 ぼんやりとした顔で頬杖をついている。

 隣の席の背もたれには黒いコートがかけられていた。彼女がそのコートのポケットに手を伸ばし、何かを取り出した。

 吸い寄せられるように近付く。

 道行くサラリーマンがうっとうしそうに俺を避けて、カバンの角をぶつけていった。

 彼女が指にはさんだのは煙草で、軽くとんとんとカウンターをたたいた。

「……?」

 ジッポーで火を点けると、そっと口元に運ぶ。


 数週間前の彼女の泣き顔が、鮮やかに脳裏に蘇った。

 じっと彼女を凝視している俺と、ふと顔を上げた彼女の視線がかちあったのはちょうどその数瞬後だった。



* * *



 視線を感じて顔を上げた。

「…っ」

 痛いぐらいの眼差しでじっと私のことを見つめていたのは、よく行くコンビニのバイト君だった。






 マンションのすぐ近くに小さなコンビニがある。帰り道に寄るのにちょうどいい場所に。

 私は普段からよくそこに通っていた。

 職場近くのコンビニでは売っていないショートピースが、そこには置いてあったから。


 バイト君のシフトと私の帰宅時間が合うらしく、数か月前に初めて見かけてからは、ずいぶんよく顔を合わせた。

 彼は、頻繁にやって来る私の煙草の銘柄を覚えてくれているようで、煙草を買おうとすると私が『ショートピース』と言う数瞬前に透明なプラスチックケースに手を伸ばす。

 別に私が特別なわけじゃないだろう。

 他の客にだって同じことをしているに違いないのだ。それなのに、なぜだか胸のどこかがくすぐったくなった。


 健康そうで清潔で、コンビニの制服らしいウィンドブレーカー越しにさえその体格の良さが分かるほど。そんな彼を私はひそかに『バイト君』と呼んで気に入っていたのだ。

 その『バイト君』が、私に声をかけてきたのは数週間前。

 ちょうど恋人と別れた夜のことだった。


『野菜も食べないと、体壊しますよ』


 張りつめていた糸が、切れた。

 

 一人の夜が増え、一緒に眠る夜が無くなっていた。

 夜中に帰っても、真っ暗な部屋。「ただいま」の声が消えた部屋。

 ひとりでコンビニ弁当を食べ、大きなダブルベッドに一人で眠る。

 朝起きてリビングに向かうと、ソファーで横になっていた恋人。

 『お前は疲れているだろうと思って』という白々しすぎる気づかい。


 そうしたあれこれに、あまりにも終わりの見えた未来を感じながら、それでも一緒にいたのはやはり私が恋人を好きだったからだ。

 離れたくないと思っていたからだ。


 バイト君の一言で、無意識に強張っていた何かがすとんと落ちて、気づいたら自分の目から、ぽろりと涙がこぼれていた。

 ひとりきりだと思っていた夜に投げかけられた優しさが、あまりにも不意打ちで。


 みっともなくて、逃げるようにコンビニを後にした私を、バイト君は追ってきた。

 おつりと『ココアシガレット』を押しつけると、今度は彼の方が逃げるように去っていった。


 ああ。

 笑いが漏れた。

 こんな風にしてわたしを気遣ってくれる誰かがいたのだな。

 なんだかそれがとても嬉しくて、でもあまりにも気まずすぎて、もう二度とあのコンビニには行けない、と思った。

 





 そのバイト君が、いま、ガラスをはさんだすぐ向こうに立っている。

 彼は ―ああ、なんてことだろう!― 学生服姿で、口を大きくぱくぱくさせた。


『そっち、行ってもいいスか?』


 え、と思っている間に、彼は大股で店の入り口へと向かった。

 私はいいとも悪いとも言ってないのに。


 私は、いきなり降ってわいたように訪れた彼との遭遇に、年甲斐もなく慌てていた。


「こんばんは」

「……こんばんは」

「『ショッピ』のお客さんですよね?」

「…はあ」


 今年29になったというのにそれはないだろうという返事。

 我が事ながら呆れるばかりだ。


 まさかこんなところでバイト君に会うとは。

 彼が当然のように私の横、コートをかけている方とは反対側の隣の席に腰を下ろした。

 学生服に、首元にはざっくり編まれたマフラーを巻いている。

(バイト君、高校生だったんだ……?)


「あ、そうですよ」

「え」


 思わず思考が口に出ていたようだ。

 しかし、露骨な私の台詞に彼が気を悪くした様子はなく、屈託のない笑顔を浮かべた。

「本当はだめなんですけど、俺もう大学決まってるからってことで深夜に入れてもらってるんですよ」

 彼は『これは内緒で』と言って、笑いながら唇の前に人差し指を立てた。

 こうして見ているとよく笑う子だ。

 そりゃあ、レジに立っているだけでにこにこしたりはしないだろうから、私が見慣れないのも当然と言っちゃ、当然なんだろうが。


「この辺なの?家」

「そうです。あのコンビニもうちのマンションの近くにあるから、バイト決めたんですよ。お客さんもですか?」

「私も。いつも家の帰りに寄ってるの、あのコンビニ」

 横に座っていた彼が、そっと私の方を向いた。


「最近…、来ないんですね」

「あ……」

 彼のほうを見ないように、私は笑う。

「最近は、忙しくて…」

「…そうですか。年末だし、大変ですね」

 いきなり訪れた沈黙。

 名前も知らない相手とこうして隣に座っていることが、いきなりものすごく不思議なことに感じられてくる。

 そっと伏せられた彼の顔は、子供のようにも大人のようにも見えなくて、私は小さく息を呑んだ。


「このあいだは、ありがとう」

 小さな声で、しかし、なるべくはっきりと口を動かすように意識して、私はそう言った。

「みっともなくてさっさと出て行っちゃったけど、すごく嬉しかった」

 ありがとうね、と呟いた。

 煙草を吸う。ゆっくりと。低く燃える葉っぱの煙を静かに吸った。

 バニラの匂いが広がった。

 何も言わない彼に耐えられなくなって、勝手に口が動く。

「今日も本当はあんまり家に帰りたくなくてこんな所にいたんだけど、おかげでバイト君に会えてよかった」

 口に出して初めて、ああ、本当にその通りだな、としみじみ思った。

 バイト君といきなりこんなところで会って慌てたり、彼の笑顔を見たり、こうして話したり。

 それだけで、なんだか少し暖かな気持ちになれた。


「……」

 それまで無言だったバイト君がそっと手を動かした。そのまま私の右手に重ねる。

「え?」

 ゆるやかな動作で私の手の上から大きな手を重ねたまま、ショートピースの最後の1本を、あっさりと灰皿に押し付けてしまった。

「あ!あぁー…」

 失望の声が漏れるのも仕方ない。


「俺、今日の夜もバイト入ってるんです」

 彼が立ち上がる。

「もし何かあったら、来て下さい。……待ってますから」

 そう言って彼は、去っていった。

 去り際、彼が触れそうで触れなかった私の右肩が、疼くようだった。



* * *



 俺はほとんど空っぽな店内にどこかぼんやりと目をやり、そうしているうちに今日(もう日付が変わっているから正確には昨日なのだが)、彼女と会った記憶が一気に押し寄せてきて、俺は「あーっ、くそっ!!」と叫びだしたい気持ちを褒め称えたいぐらいの理性で抑え、頭をぐしゃぐしゃかきまわした。

 時刻はもう午前5時だ。


『もし何かあったら、来て下さい。……待ってますから』


 『何か』ってなんだ!とか、『待ってます』はないだろう、引くだろ絶対!とか、もうあの時の自分の台詞にはツッコミ所満載で、それだけにもう、思い出す度、突っ伏したくなる。

 案の定、彼女は来なかった。

 そりゃあ、そうだろう。


 それに彼女は、俺が高校生だと知ってえらく驚いてた。

 社会人から見たら高校生なんて、ものすごい子どもなんだろう。

 別に直接何かを言われたわけでもないのに、むしろ彼女からは『ありがとう』とまで言われたのに。

 それでも。


(やっぱり、これは……こたえるな…)


「あの」

 声をかけられて、慌てて顔を上げた。どうやら気づかない間に(というか俺が恥ずかしさに悶絶している間に)、客がやってきたらしい。

「あ、」

 寒さで赤くなった頬。

 黒いコートではなく、もこもこしたダウンジャケット。

 彼女だ。

「朝ごはんにおでんでも、と思って」

 スーツにコートではなく、ジーンズにダウンジャケット姿の彼女を見るのは初めてで、そうしていると、大学生くらいにも見えた。

「…そうですか。いらっしゃいませ」

「…はい」

 客のいないコンビニ。

 まだ日が昇っていないせいで外は暗い。

 彼女は湯気を上げるおでんを見て少し顔をほころばせ、容器に大根とちくわぶ、牛すじとウィンナー巻きを入れていく。


「バイト、何時まで?」

「え…あ、6時までです。あと1時間」

「そっか。じゃあ、私が家を出るときに会えるかもね」

 そっか、と彼女が再び呟く。

 心の箱を開けるようなわずかな時間を置いて『メリークリスマス』と言いながら、彼女が顔を上げた。

 おでんの入ったビニル袋を大事そうに両手で抱えて、去っていった彼女の後姿を、僕はじっと見つめていた。

 さっきまでの混乱した胸中がウソみたいに穏やかになっている。


 今日の彼女は、珍しく『ショートピース』を買っていかなかった。

 

 らしくもなく照れくさい、そんなクリスマスの朝。

 



   -The End-


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