童貞を捨てようと心に決めた
「俺は童貞ではありません」
その言葉が自分の口から発せられた瞬間。またしても過去の記憶が映像となって蘇った。
大学を中退した俺は家業の町工場で働き始めた。
何もわからないまま、傾きかけた工場の立て直しに奔走する日々が始まった。そんな目まぐるしい中にあっても、俺はリュウヤに受けた仕打ちが頭から離れなかった。
予定より早く始まった社会人生活で、仕入れ先や元受けの会社の担当者など、人と会う機会も増えた。そのたびに俺は、この人は童貞だろうか、この人は俺のことを童貞だと気づいているだろうか、という邪念にとりつかれた。若い女性と話すときその不安は顕著だった。
率直に表現すると自信がなかった。
社会人となって二年ほど経った頃、俺は未だ童貞のままだった。
異性との出会いらしい出会いもなく、彼女はもちろんのこと好きな人もいない状態が続いていた。言い訳のように聞こえるかもしれないが、恋愛などにうつつを抜かしている暇はなかったからだ。
しかし、そろそろいい加減童貞を卒業しなければならないとも思っていた。
性的な欲求が全くないと言ったら嘘になるが、実際それほどセックスには飢えていなかった。
よく勘違いされるが、世間で考えられているほど、童貞はセックスには飢えていない。フィクションでしばしば見られる、童貞が女の尻を必死に追いかけまわしている姿は、現実とはかけ離れた童貞像である。
童貞が望むのは、自然な出会いによってできた相思相愛の彼女との初体験である。あるいは、美女が向こうから近づいてきて、しかたなくセックスに応じるというシチュエーションに憧れるのである。
積極的に女性にアプローチしている時点でもうその男は、半分童貞を卒業しているようなものである。
ともかく、俺が童貞を捨てたいと思ったのは、性的欲求などという表面的な理由ではない。
早く非童貞という認定を受け精神的に楽になりたい。
そんな社会的称号に飢えていたからだ。
風俗という手段は考えられなかった。
金を払えばヤれるという状況では、真に童貞を卒業したことにはならないし、人生に永遠の汚点を残すことになる。
簡単にいうと、「なんか負けた気がする」から嫌だった。
これは人によって様々で、童貞を卒業するのに風俗へ行くことに対し、何の抵抗も持たない男も少なくないらしい。こればかりは個人の考え方の違いとしか言いようがない。
・早く非童貞になりたいが彼女はいない。また、今後できる予定もない。
・でも風俗には行きたくない。
それら背反する願望を叶えるための苦肉の妥協策として俺が選んだのが、『風俗店で働いていない一般女性にお金を払ってセックスをする』、という手段だった。
街を歩いているカップルも男性が多くお金を払ってデートしてしるのだから、間接的には金で女を買っているのと同じだ。そう自分に言い聞かせ、これからやろうとしている手段を正当化した。今になって思うと、そんなものは童貞ならではのつまらないプライドでしかないのだが……。
それに、社会的称号を得るという目的で童貞卒業を目指すのであれば、本来は他人に堂々と語れる初体験でなければならない。そういう自己矛盾を認めた上で、なおかつ俺は金で女を買うという手段を選んだ。
とりあえず自分の中に、セックスを経験したという事実を作ること。まずはそれが重要なのだ。
何事にも段階というものがある。初めての交際とセックスを一度にクリアしようという考え自体が、虫が良すぎるのだ。
さて、一般女性にお金を払ってセックスする手段は、援助交際や出会い系アプリなど、幾通りか考えられる。
その中で、最も手っ取り早い方法として俺が目を付けたのがテレクラだった。
手段を決めたら次に考えるのは、いつ行くかだ。
当然早い方がいい。
金で童貞を捨てるというのは、いわば人生の『損切』である。
損切は何よりスピードが重要なのだ。
例えばテレクラで童貞を卒業した一週間後に運命の出会いがあり、初めての彼女とセックスに至ったとする。もしそんなことになったら、ああ何で俺は一週間前あんな状況で童貞を捨ててしまったんだろう、と死ぬほど後悔する羽目になるだろう。だからといって、そういう奇跡的な状況を期待して、あと一日もう一日と延期を重ねていたら、三十や四十になってもまだ童貞かもしれないのだ。つまり、金を払って童貞を捨てた日の何年後に素人彼女とセックスできるのか(あるいは一生できないのか)、捨てた時点では予測できないというジレンマを抱えることになる。株価が下がり始めたとき、どこでロスカットするのが最適か、後にならないとわからないのと同様である。故に、金で童貞を捨てようとする男は、これまでの人生を振り返ってみて、このまま生きていても素人の彼女との初体験は不可能であるのか、あるいはもう少し粘れば素人彼女ができる公算が高いのか、遅くとも二十五歳までに判断する必要がある。そして、ひとたび人生の損切をする決断を下したのなら、できるだけ若い時点で、風俗なり何なりで童貞を捨ててしまうのが得策である。
行くなら次の休日だ!
そう心に決めた。




