映夢館
通い慣れた道。近所のスーパーからの帰りに通るその脇に、古くからの映画館がある。もう10年以上前に閉館になって以来、取り壊されるでもなく、ただずっとそこに佇んでいた。
それが、今日、今目の前で、淡いオレンジ色の光に包まれている。しかし僕以外の誰一人、その光景に足を止める者はいない。皆、その光に気付くそぶりすらない。
僕は恐る恐る、その奇妙な空間へ足を踏み入れた。館内は外から見るよりもずっと広く、天井も高い。吊るされたシャンデリアからは白い光がちらちらとふり、一面に敷き詰められた真っ赤なカーペットに、足が柔らかに沈み込む。感じた事のない快適さと場違いな居心地の悪さで、僕の心は正しい居場所を見失ったようだった。
「ようこそ、映夢館へ」
大学生くらいの、若い女性が深々と頭を下げる。綺麗な姿勢と上品な制服で、まるで一流ホテルの様な佇まいだ。しかしその手元をよく見ると、なにやら細かな字がびっしりと書き込まれた小さなカードをぎゅっと握りしめている。僕のその視線に気が付き、女性は顔を赤らめ、慌てて弁明した。
「す、すみません。私、アルバイトで……まだマニュアルを覚えきれていなくて」
「それよりも、ここは一体……?」
「あ、当館のご利用は初めてですか?そ、それでは、中をご案内いたします」
その言葉に促され、僕は女性の後を追った。彼女はチケットブースを素通りし、無人のゲートを通り抜けて、そのまま、大きく”1”と書かれた部屋の前まで進んで、ようやく立ち止まった。
「当館では、お客さまの望む夢をご覧になることができます。ヒーローになって空を飛ぶも良し、探検家になってジャングルの中を冒険するも良し、南の島でのんびりと過ごすも良し、全ての夢は、あなたの思うがままなのです」
既に開き直ったのか、女性は手元のカンペカードを堂々と見ながら、スラスラと読み上げた。
「ええっと、つまり、どうゆうこと?映画のスクリーンに僕の夢が映し出されるの?」
「え?え?あ、そういうことじゃなくて。ええっと、何て言えばいいのか……各シアターでは、そのシアターの中で目を瞑ると、お客さま皆さん同じ夢を見ることができて……例えばこの1番シアターでは、今日は恐竜に追いかけられる夢を見ることができます。はい……。夢を共有しているので、夢の中ではお客さま同士会話したり、協力したりできます」
カンペにない質問に、女性の受け答えは突然辿々しくなる。その説明に納得したような、よく分からないような、僕のその困惑の表情を読み取ったのか、彼女は続けた。
「あの……私の説明じゃ分からないと思うので、試しにどれか一つ、夢をご覧になりませんか?私のおすすめは、5番シアターでやってるタイムスリップの夢です」
そう言って女性は僕をさらに奥へと案内した。
5番シアターの前まで来て、しかし僕の心は、逆側の小さな部屋に惹かれた。他の部屋が金縁の、豪華絢爛な扉を開け放っているのに対し、その4番シアターだけが、錆び付いた鉄製の扉で閉じられている。その扉の、僅かな隙間から白い光が漏れていた。僕の目はその中に、年老いた一人の女性が座っているのを捉えた。彼女の目は閉じられたまま、真っ直ぐに、光の方を向いていた。そして不自然なほどに、身体は動いていなかった。呼吸をしているのかどうか、ここからでは判断がつかない。
「あの、すいません。こっちの4番シアターは何の夢なんですか?」
5番シアターにズンズンと入っていく女性を、僕は呼び止めた。振り返った彼女は、突然血相を変えて、通せんぼをするみたいに、僕と4番シアターとの間に身体を滑り込ませた。
「ここは、この夢はダメです。見れません」
「でも、さっき中にお婆さんが見えましたよ」
女性の目は分かりやすく泳いでいたが、3度ほど僕と床とを行き来して、躊躇いながらも語り出した。
「ここは、”死んだ人に逢える夢”です。この夢だけは特別で、夢を他の観客と共有することもありません。あなただけの夢です。亡くなった、大切な人と逢える夢……だけど、皆んな戻って来られなくなります。大切な人と、二度とは別れたくないからです。そうして死ぬまで、ここでその人の夢を見ることになります……あのお婆さんも、若くして亡くなったご主人との夢を見ているそうです。もう10年以上、ああしてあそこに座っているそうです……」
女性は哀しそうな目でお婆さんを見つめ、それからこちらに向き直って、僕を説得した。
「ですから、ここはダメです……さぁ、こちらでもっと素敵な夢を見ましょう!」
「彼女と死ぬまで一緒にいられるなら、それより素敵な夢なんてないよ」
女性の手を振り払い、僕は4番シアターの扉を開けた。中に音はなく、スクリーンにはただ真っ白い光だけが映っている。僕は一番手前の席に座り、そっと目を閉じた。
奇妙な感覚だった。眠るというより、別の空間に移動するような、徐々に身体が軽くなり、ある時ふっと重力から解放された。僕はそこでようやく目を開けた。
辺りは殺風景だった。音も、匂いもなく、地面を踏む感覚すらない。スクリーンと同じ、ただ真っ白な光の中に、僕はいた。
「久しぶり」
その懐かしい声で、僕は振り返った。その柔らかい笑顔に、頬を伝うものを感じながら、彼女に無言で歩み寄った。
「わざわざこんな所まで呼び出して、私に何か用?」
笑いながら、少しめんどくさそうに話す彼女の姿は、僕の記憶のそれと全く違わなかった。明るい赤の口紅が、よく似合っていた。
「君に、君に会いたくて……僕は、僕は……」
「どうしたの?もっとシャキッとして、ほら!」
彼女に促され、僕は背筋を伸ばす。彼女がニシシっと笑う。
「えっと……そうだ!先週駅前に、カレー屋ができたんだ。少し甘めで、僕にはちょうど良かったんだけど、君はもっと辛いのじゃなきゃって、言うかもだけど」
違う。こんな事じゃない。彼女に会ったら話したい事が、沢山あったのに。毎晩、ずっと考えていたのに。いざとなると、言葉がまるで出てこない。
それからも、僕が話すのはどれもあまりにくだらないものばかりだった。でも、僕は段々と、それでいいのだと思うようになった。何せここなら、いつまでも彼女といられる。時間はたっぷりとあるのだから。
「ねぇ、そろそろ起きないと、編集さんと打ち合わせの約束、あるんじゃないの?」
突然、彼女が言った。僕は戸惑った。彼女の顔は、真剣だった。
「い、いや……いいんだよ、もう。僕は君とここに、ずっと……」
「もう、寝ぼけたこと言わないで。私あなたの新作楽しみにしてるのに」
「そんなの、僕がここで、いくらでも話してあげるよ。前はどこまで……」
「ダメよそんなの。自分の手でページをめくりながら、あなたの言葉をじっくり味わうのが楽しいのに。私の楽しみを奪わないで」
彼女はムッとした顔で、腰に手をあてた。それから、ふっと表情が柔らかくなった。
「さぁほら!シャキッとして!」
僕は、彼女の顔をじっと見た。その目の奥に、自分の姿が映っているのが見えた。
「……最後に、ひとつだけ……これは、これは本当に夢?だって君は……」
彼女の唇が、僕の頬にそっと触れた。それから優しく微笑んだ。
「夢に決まってるでしょ。ほら、もう起きる時間よ」
目が覚めると、僕は自分の部屋の天井を見つめていた。カーテンの隙間から漏れた太陽の光が、部屋の奥にまで差し込んでいる。僕はふらふらと洗面所へ行った。そこでぼーっと、鏡を見つめた。
左の頬に、小さく、明るい赤色が付いていた。