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ぼんやりとそれを見つめてから、晴彦は重要なことを思い出した。すっと血の気が引く。
「煌哉。ここには本当に、俺以外の人間はいないのか?」
「だから、さっきからそう言っているだろ」
「女の子が、来てないか。俺と同い年くらいの、女の子」
先ほどまではのんびりと談笑していたのに、晴彦は突然取り乱した。今にも掴みかかりそうなほどに切羽詰った晴彦を見て、煌哉が顔を曇らせる。
「来てねぇよ。来てたら、とっくに話題になってる」
なんでそんなことを聞くのかと、煌哉は不思議そうに首を傾げた。晴彦はとうとう煌哉の肩を掴んで揺すった。
「来てるはずなんだ。ここに。あいつが!」
「待て待て。落ち着け。もう少し分かりやすく言ってくれ」
何を言っているのか、さっぱりだと煌哉が言う。晴彦は目を回した煌哉を放ると、そのまま自分の頭を掻きむしった。
「うっかりしていた。そうだよ、俺が来てるんだから、小咲がいたっておかしくない。だって俺は小咲を追いかけて、ここに来たんだから。なんで、もっと早く気付かなかったんだ」
「晴彦、今……その女の子の名前、なんて言った?」
少しふらふらしながら、煌哉が真面目な顔で晴彦に問う。
「小咲……だけど?」
晴彦の返事を得て、煌哉がぐっと唇を噛んだ。どうしたというのだろう。小咲という名に、何かあるのだろうか。
「お前、小咲って子と一緒にここに来たのか?」
「一緒にというか……俺はこっそり小咲をの後を追いかけていて、気が付いたら、ここにいたんだよ」
「そのことを誰かに話したか?」
「え? 話してない……けど」
「そうか」
それならば良かった、と煌哉が言う。一体どうしたというのだろう。何やら考え込む煌哉の表情に、彼が生きた年月を垣間見た気がした。
大人びた表情の煌哉は、晴彦に顔を近付けて、ごく小さな声で呟いた。
「それ、絶対に誰にも言うなよ」
「なんで?」
つられて晴彦の声も低くなる。
「小咲という名の女の子には、心当たりがある」
「本当か!」
「しっ! ただし、俺が知ってる小咲は、人間じゃない」
一瞬だけ目を輝かせた晴彦に向けて、煌哉が人差し指を唇に当てたまま、必要以上にゆっくりと話す。口から飛び出す言葉の一語ずつを、晴彦に染み込ませようとしているみたいだった。
「彼女は江戸彼岸の、桜の花の化身だよ」
「え? ちょ……それって、つまり」
「小咲が、晴彦をここに連れてきた張本人ってことだよ」
晴彦はぽかんと口を開け、無音のまま閉じた。
煌哉によると、桜などの大樹は付喪族と同じように、長い年月を過ぎると、妖力を得ることがあるのだそうだ。染井吉野は寿命が短く、妖になることはできないが、小咲という妖は江戸彼岸。妖力を得るには十分なほどの樹齢を持ち得る。
そういった類の妖はそれほど多くない。煌哉は面識こそないが、噂で小咲という名の桜がいることを知ったという。
「いや。まさか、そんな」
煌哉の言い分は、あまりに突飛であると思った。だって小咲は晴彦と一緒に、歳を重ねていったのだ。大樹が人間の成長速度に合わせて見た目を変えるなど、おかしな話だ。
「何言ってんだよ。見た目の年齢を変える程度なら、化けるのが得意な狐族でなくても、ちょっと練習すれば誰にだってできることだ」
「けど……」
「その子、春先の……桜が咲いている時期にしか、姿を見せなかったんじゃないか?」
煌哉に言われて、晴彦は言葉を失った。確かに、その通りだった。そんな小咲の秘密を、晴彦はずっと不思議に思っていたのだ。
「……やっぱりな。桜の花の化身は、花が咲いている時期しか、実体化できないんだよ」
そうは言われても、話があまりに不可思議すぎて、晴彦はまだ信じきることができない。しかし煌哉の頭の中では、すっかり真実だと断定されたようだった。気遣わしげに晴彦を見る。
「きっと小咲が扉を閉めるよりも前に、晴彦がこっち側に来ちゃったんだろうな。
もし、このことがばれたら、晴彦をここに連れ込んだ責任を取るのは、彼女になるかもしれないぞ」
決して軽くはない罪だと、佐久夜が言っていた。それは煌哉の表情からも、容易に想像できる。
(もしも小咲が、妖だったら……)
だとしたら煌哉の言う通り、小咲はわざと晴彦を連れてきたわけじゃない。晴彦が勝手についてきただけだ。だって小咲は、晴彦に気付く素振りなど一度も見せなかったじゃないか。
小咲が人間ではない……そんなこと有り得るのか。晴彦は左手を大きく開いて、頭を抱えた。指と指の隙間から、困ったように眉を下げた煌哉が、晴彦の様子を伺っているのが見えた。
(……もし煌哉がクラスメートにいたとしたら、俺は煌哉を、妖だなんて思わなかった)
つまり、見た目だけで人と妖を見分けることは、できないのだ。
もしかして……小咲は、本当に妖なのだろうか。
(だとしたら、俺の代わりに小咲が罰を受けるのか)
それを思うと、総身に震えが走った。佐久夜に晴彦自身が責められたときより、ずっと。
頼むから秘密にしてくれ。もしそれで、自分が罰を受けることになっても構わないから。そう言おうと口を開きかけて、襖の向こうから入り込んだ声に邪魔された。
「煌哉殿、晴彦殿、いらっしゃいますか」
二人は黙ったままで、声のする方を向いた。声は晴彦の気持ちなど露知らず、淡々と告げる。
「拝殿へおいでください。晴彦殿が神域へ迷い込んだ原因が、判明しました」