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最後の花が散るまでは  作者: 佐倉杏
盗人
8/28

5

 夜、ふと晴彦は目を覚ました。

 真っ暗な天井を見上げて二、三度瞬きをする。それから自分の身に起きた様々な出来事を思い出し、(ああ、まだ夢から醒めてないんだな)と思った。ここは自宅でも、図書館でもなかった。木を組んだ天井も、花の香りがする夜具も、人間の世界のものですらない。夢の中で借りた、神殿の備品だ。


(神殿。寝殿。音は一緒なんだな)

 この建物の名は、神殿というそうだ。晴彦は神社と平安京を足して二で割ったものだと認識している。そして神殿があるこの世界を、神域と呼ぶ。


 夜具から手を出すと、煌哉に借りた単の裾が目の端に映る。きっと上等な衣なのだろう。ジャージよりも柔らかくて、着心地はとても良かった。


 晴彦は伊之助と別れた後、煌哉に渡殿の部屋まで連れて行ってもらった。そして調度品の使い方を教わっているうちに日が暮れて、早々に床に就いたのだ。なんだかんだで疲れていた晴彦は、あっという間に眠りに落ちた。


(もしかしたら……本当に、夢じゃないのかもしれない)

 醒めない夢を見ていると思うより、いくらか現実的な気もした。それに、現実を夢だと勘違いしては色々と不都合もあろうが、その逆ならば問題はない。

 夜具の中でもぞもぞと体を動かして、枕元に置いておいたスマートフォンを手探りで見つける。電源ボタンを押して時間を確認すると、夜中の二時であった。当然電波など届かないが、時間を確認することくらいはできる。


(充電、あと三十パーセントしかないけど)

 コンセントのないこの世界では、明日の夕方にはただの鉄塊と化すだろう。


 それにしても、神域の夜は本当に暗い。スマートフォンの灯りが眩しくて、しばらくは瞼の裏がチカチカしていた。

 釣り灯籠の代わりなのか、この神殿には所々に、ほおずきのような植物が飾ってあり、それらが柔らかな光を放っている。しかし、そもそもほおずきの絶対数が少ないため、晴彦にとっては、あまりに不十分な明るさであると断じるしかない。


 なんでも妖は目が良いから、月明かり程度の光があれば、夜間であっても昼間と同じように見えるのだそうだ。ならばなぜ、わざわざほおずきを飾るのかと煌哉に聞いてみると、「綺麗だから」という身も蓋もない答えが返ってきた。


(たぶん本当は、月のない夜への対策なんだろうな)

 新月の日はもちろん、雨の日や曇りの日であっても、月明かりは見えない。


 煌哉の話を聞いていると、妖は、実は人間によく似た生き物なのだと思えてくる。妖だって人間と同じように、心臓が止まれば死ぬし、血液が足りなければ目眩がする。それと同じように、暗い場所では目の機能が低下するのだ。色の判断がつかなくなり、輪郭が曖昧になる。


 たしか、そう、光を感じるのは、桿体(かんたい)細胞と錐体(すいたい)細胞だったか。ただ、一体どちらが暗闇で働く細胞であったかまでは定かではない。これは数ヶ月前に、必死になって頭に叩き込んだ生物学の知識だ。生物は化学や物理とは違い、計算問題が少ない。だから晴彦のような文系志望の学生の多くは、選択科目に生物を選ぶ。


 ほんの少し勉強のことを考えただけで、晴彦の口から大きな欠伸が飛び出した。

 もう一眠りしよう。根拠はないが、この世界の朝は早い気がする。

 寝返りを打つと、面倒臭くて開けっぱなしにしていた格子の向こうで、御簾に写った影が動いた気がした。風で木が揺れたのか。それとも誰か、ここにいるのか。

 晴彦は寝ぼけ眼を擦って、その影を見た。


「誰だ? 煌哉か?」

 問いかけるが、影から返事は来ない。気のせいかとも思うのだが、なんとなく気味が悪い。とうとうしびれを切らして御簾を開けようと手を伸ばすと、低く鋭い「警告する」という声が聞こえた。


「今のうちに、人の世に戻れ。ここは、お前がいて良い場所じゃない」

 声は一度そこで途切れ、しばらくの沈黙が下りた。伸ばしかけた手を止めて口を半分だけ開ける晴彦の耳に、続いて届いた言葉は、およそこれまでの人生において、聞く機会など皆無であった言葉だ。

「でなければ、殺す」


 影は確かにそう言った。

 その声を聞いて、晴彦は飛び起きた。冷水を浴びせられたように全身が凍えているのに、たっぷりと汗をかいている。御簾の向こうには、もう影は写っていない。

 御簾を開けて追いかけて、影の正体を確かめるべきだ。そう思ったが、体が動かない。

 影はもう、どこかへ消えてしまった。なのに晴彦は、影の手が柔らかく無防備な自分の首を、ゆっくりと締め上げているような気がしていた。





「はぁ? 誰かが忍び込んできた?」

 長い長い夜がようやく終わると、すぐに晴彦は、隣の部屋で休んでいた煌哉を起こしに行った。てっきりまだ寝ているのではないかと思っていたのだが、煌哉は意外にも朝は強いらしい。彼は既に身支度を終えており、慌てふためく晴彦を見て眉を寄せた。


「誰も来なかったと思うけどなあ」

 晴彦の主張などそっちのけで、煌哉はごそごそと荷物を漁った。着替えを持っていない晴彦の丈に合う着物を、選んでくれているのだ。しかし当の晴彦はそれどころではなかった。必死になって言い募る。


「や、だって、声が!」

「夢じゃなくてか?」

「そんなわけない! ……と、思う」


 確かに見たのだ。昨夜はあれから一睡もできなかった。けれど煌哉があまりにも自信満々に誰も来なかったと言うものだから、もしかしたら夢だったのかも……という思いがちらりと過る。

 その態度を見て、煌哉は晴彦が寝ぼけたのだと確信したらしい。晴彦の不安を笑い飛ばした。


「なんだよ、あやふやだなあ」

「そっちこそ、なんでそんな、自信満々に言い切れるんだよ」

「だって俺、不審な妖力を感じたら、寝てたって飛び起きるぜ?」

 こう見えても外敵の感知能力は高いのだと、少々自慢げに煌哉は胸を張る。


「それにさ、わざわざ真夜中に晴彦の部屋に来る理由は何だよ? 拝殿と本殿以外は、日中であれば、出入りに厳しくはないのに」

「それは、まあ。そうなんだけどさ」

「お前、少し疲れてんだよ。無理もないよな。突然神域に連れてこられて、こんなことに巻き込まれてさ」


「……実は、俺が何か失礼なことしてて、怒った伊之助さんが、誰かを寄越したって可能性は、ないよな?」

「伊之助は、そんなことする奴じゃないと思うけどなぁ」


 何を馬鹿なことを言っているのか、と呆れ顔を向ける煌哉は、衣の山からようやく一枚の直衣(のうし)を引っ張り出して、晴彦に放り投げた。

 飛んできた衣を両手で抱え込み、煌哉に手伝ってもらいながら、なんとか着替える。


「理由……。理由かぁ」

 影は、一体どんな理由があって、夜中に晴彦のところに来たのだろうか。

 晴彦は直衣の袖に手を通しながらしばらく考え、やがて、ぽんと手を打った。


「人間、だったとか!」

 神域にとって異物である人間は、罰せられることを恐れて妖から逃げるだろうし、妖力を感じなくても当然だ。これで煌哉が、影の来訪に気付かなかった理由が説明できる。

 しかし煌哉は部屋の格子を上げながら、晴彦の言葉を否定した。格子の向こうに見える遣水が、朝の光を跳ね返してきらきら光っている。


「人間がこんなところに来れるわけないだろ」

「でも、現に俺がここにいるのに」

「……晴彦、お前が考えているよりもずっと、人間が神域に入るってのは異常なことなんだよ」


 晴彦がここに訪れた原因を特定するために、上層部の妖たちまで大忙しだという。

「真経津様も八尺瓊(やさかに)様も、ろくに寝てないんだろうな」

 仕事熱心な方たちだから、と独り言のように煌哉が言った。


「誰だ? それ」

「付喪族の頭領たちだよ」

 付喪族。そういえば、付喪族とは一体何なのだろう。鬼と狐は分かりやすいのに、こちらは全く想像もつかない。良い機会だからと思って聞いてみると、煌哉は目を普段の二倍の大きさにして、阿呆みたいに口を開いた。


「嘘だろ。……知らねぇの?」

「ご、ごめん」

 煌哉はこれ見よがしに溜め息をついた。どうやら本気でショックを受けたようで、がっくりと肩を落としている。


「そっかぁ……仕方ねぇのかなぁ。

 ……付喪族ってのは、器物に宿る魂、付喪たちの集まりさ」


 大切に作られ、気の遠くなるほど長い時間、大事に使われた道具には魂が宿る。それが付喪だと煌哉は言った。付喪たちに血縁はないが、鬼族や狐族のように同族で集まり、一緒に暮らしているのだそうだ。


「俺は掛け軸の付喪。天照大御神(あまてらすおおみかみ)って分かるか? 太陽神だ。その女神が描かれてる。

 俺さ、江戸幕府の頃は、現世にある神社に飾られていたんだ。でも、もう何百年前かな……その神社で大きな火事があったんだ。危うく火が移る! ってときに、仲間の付喪がなんとか助けてくれた。

 そのときはまだ俺、付喪になりかけでさ。意識はあったんだけど、自分で逃げるなんてできなかった。あの人には今でも感謝しているよ」


 そのときのことを思い出したのか、煌哉の明るい瞳に、わずかばかりの陰りが見えた。

「大変……だったんだな」

「ああ。付喪は、本体である器物が傷付くと死ぬからな。ひやひやしたよ」

「見てみたいな、煌哉の本体」

 きっと綺麗に違いない。興味本位でそう言うと、煌哉は目を輝かせて喜んだ。


「おお! いいな、ぜひ見に来いよ。山を下った付喪族の屋敷に置いてあるから!」

「いいのかよ、大事な本体からそんなに離れて」

 生き死にに関わる物なのに、あまりに扱いがぞんざいではないか。


「平気だよ、信頼できる人が屋敷にずっといて、守ってくれているからな!」

 煌哉はそれこそ太陽のように笑った。太陽神の掛け軸というのは、伊達ではないようだ。

 そのとき、無邪気にはしゃぐ煌哉の向こうに、遣水に映る桜の木が見えた。


 この世界の桜も、散ることを知らない。


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