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最後の花が散るまでは  作者: 佐倉杏
盗人
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 晴彦は鬼の後ろを必死になってついていった。晴彦にとっては見るもの全てが珍しく、中が見えそうな部屋があれば、ちらりとでも覗いていったし、不可思議な足音がすれば、その正体を探ろうと辺りを見回した。そのせいで、どうしても歩みは遅れがちになる。そのうえ鬼は、恐ろしく足が速かったのだ。


 鬼は時折ちらちらと晴彦の方を見た。そして目が合うと慌てて正面を向いて、その度に歩く速度が少しばかり上がった。

 最後の方は、晴彦はほとんど走るようにして進んでいた。やがて鬼は、晴彦にはどれも同じように見える部屋の前で、急に足を止めた。どたばたと響くやかましい音が途端に消え失せる。自分だって音を立てていたくせに、鬼は晴彦に向かって、静かにするようにと身振りで示した。


「失礼いたします。鬼一郎様、いらっしゃいますか」

 すると中から、やはり鬼が出てきた。こちらの鬼は角こそ生えているが、顔色は人間のそれと何ら変わらない。


 すらりとした体躯のこの鬼は、道案内をしてくれた鬼とは全く異なる印象を晴彦に与えた。腕力が強そうには見えないのだが、彼も鬼であるからして、きっととんでもない筋力の持ち主なのだろう。彼は切れ長の瞳を向けて、礼儀のなっていない突然の来訪者に眉を顰めている。


「あ、伊之助(いのすけ)様!」

「お前な、足音を立てるなといつも言っているだろう」

 叱られた鬼は素直に謝り、幅の広い肩を落とした。


「それで、そんなに慌てて、一体どうしたというのだ。鬼一郎様なら御前会議で、拝殿においでだが……」

 そこまで言うと、伊之助の黒目がみるみるうちに細く尖った。明るい場所にいる猫の目のようだ。その瞳は晴彦を捉えている。


「……人間か!」

 叫ぶや否や、伊之助は左の腰に()いた太刀に手をかけた。あわや抜くかと思われたが、伊之助もそこまで短気ではなかったようで、油断なく晴彦を睨みつけながら、同族である鬼に鋭く問うた。


「なぜ人間がここにいる!」

「それが、分からないのです」


 伊之助の迫力に、鬼はほとんど泣きそうだった。隠しようもないほど大きな体を、懸命に小さくしようとしている。


「狛犬の阿形が連れてきました。迷い込んだようだから、姫様たちの指示を仰げと」

 しかし身分の低いこの鬼が、直接姫神に会うというのは現実的ではない。そこでまずは、鬼の頭領である鬼一郎の元へと走ることになったのだ。


 説明を聞いて、伊之助は判断に迷っているようであった。鬼の言葉を信じていないというよりは、晴彦が鬼を騙しているとでも思っている様子だ。突き刺さるような胡乱な眼差しをこちらに向けている。


「……私が今、拝殿に直接出向くのは、失礼に値するかもしれん。だが……今の状況で、人間の侵入者を放っておくわけにはいかんな」


 伊之助は太刀から手を離すと、鬼に自分の仕事に戻るようにと言いつけた。鬼は心底ほっとした表情で、ぺこりと頭を下げて走り去る。伊之助が溜め息混じりに「だから足音を立てるなと言っておろうに」と呟くのが聞こえた。

 鬼の背中が小さくなるにつれて、反対に晴彦の不安は膨らんでいった。このおっかない鬼と二人きりにしないでくれ、と叫ぶ勇気もない。見知らぬ世界に心躍らせていたのが、遠い昔のようだ。


 やがて道案内をしてくれた鬼が完全に見えなくなると、伊之助が晴彦を見下ろした。伊之助には晴彦を軽々と超える上背があるのだ。


「さて」

 つい先ほどまで鬼に向けていた言葉には、所々に優しさが隠れていたのに、今や伊之助の言葉は、完全に鞘を放り捨てている。言葉だけで晴彦を刺し殺そうとするような、鋭い声色だった。


「一応聞いておく。……誰の差し金だ?」

「な、何のことです?」

 今まで向けられたことのない感情を正面からぶつけられて、半歩後ずさった晴彦は情けなく眉尻を下げる。伊之助はふんと鼻を鳴らすと、踵を返して簀子(すのこ)へと進み出た。ちらりと肩越しに晴彦を見る。


「拝殿まで案内してやる。はぐれるなよ」

 晴彦は伊之助について、さらに建物の奥へと踏み込んでいく。一歩進むごとに、元いた世界が遠ざかっていくようで怖かった。

 そろそろ、このわけの分からない夢から目覚めてほしいと心の内で呟くが、この世界の姫神たちが、晴彦の願いを聞き入れることはなかった。






 伊之助は無駄なお喋りをするつもりなど、一切ないらしい。一度も晴彦の方を振り返ることなく、ただひたすらに進んでいく。先ほどの鬼が案内してくれたときには、あちこちに顔を向けていた晴彦も、今は緊張した表情でひたすら伊之助についていった。少しでも怪しい行動をすれば、たちまち伊之助の腰から太刀が抜かれる気がした。


 やがて晴彦は拝殿へと辿り着いた。つい先刻、晴彦が通ってきた池が遠くに見える。拝殿は東の対と違って、開け放たれている格子が少なかった。中央の三つだけが通れるようになっていて、その格子の先は庭に降りる階段につながっていた。

 伊之助がそちらに向かうと、二人の男が行く手を塞いだ。自然と晴彦の目は男たちの頭に向かう。どうせ角でも生えているのだろうと思ったのだ。しかしいくら探しても、二人の男の頭には、角など見付からなかった。そういえばこれまでの例に比べると、鬼にしては体格が華奢な気もする。


 その代わりと言ってはなんだが、二人の男には、ふさふさとした黄金色の耳が生えていた。よく見れば、袴の後ろからは同じ色の尾が揺れている。

 男のうち一人が、ずいと伊之助に詰め寄った。


「待て。鬼。どこへ行く」

 伊之助は忌々しげに男を見下ろした。どう見ても仲が良いとは思えない。

「緊急事態だ。謁見を要求する」

「許可できない。御前会議に参加できるのは、従五位以上に限る」

「承知の上だ。

 どうしても無理だというのなら、鬼一郎様をお呼びしてくれ」


 意外にも伊之助はあっさりと引いて、妥協案を提示した。しかしそれにさえ男は良い顔をしない。無表情の男は硬い口調を崩すことなく、彼らよりずっと背の高い伊之助をまっすぐに見上げる。


「鬼一郎様は会議中だ」

 あくまで頑なな男の様子に、伊之助もかちんときたようだ。その声色は、上空で唸る雷雲のようだった。地上に取り残された晴彦は、恐怖に慄くことしかできない。

「頭の固い狐どもめ。私が何の考えもなしに、鬼一郎様の邪魔をすると思うか!」

「規則は規則だ! 非常識な鬼めに、とやかく言われる謂れはないわ!」


 まさに一触即発。互いに牙を覗かせて唸る様子を見て、既に血の気の引いた晴彦は救いを求めてあちらへ、こちらへと目を泳がせる。けれど喧嘩を止めてくれそうな人はどこにもいない。もう一人いた耳の生えた男に目を向けるも、知らん顔で庭を眺めているだけだ。


(鬼一郎って人は、拝殿の中にいるんだろうけど……)

 鬼一郎なら、きっとこの騒ぎを治められるのだろう。けれど、そのために拝殿の中に入り込むのは自殺行為に思える。まず言い争う二人に殺されそうだ。

 すると晴彦の祈りが通じたのか、正面の格子から誰かが出てきた。期待を込めてそちらを見つめると、額に皺を寄せた壮年の男が伊之助らを睨みつけた。


 男は明らかに他の人たちよりも高価そうな、黒い衣に身を包んでいた。優しげな顔立ちをしているのだが、その全身からは風格と呼ばれるものが立ち上っている。伊之助からも相当な威厳を感じたが、この人は別格だった。歩く動作の一つ一つが力強い。


 そして一見しただけでは人間にしか見えないその男の頭にも、立派な一本の角が生えている。直感で分かった。この人が鬼一郎に違いない。

 近付いてくる男に気付いた伊之助が、はっとして跪いた。


「鬼一郎様!」

「いい加減にせんか。中までお前たちの言い争う声が響いているぞ」

 いつも冷静なお前らしくもない、と叱る鬼一郎の声はあくまで冷静で、穏やかとも取れた。しかし伊之助と男の言い争いを止めるには十分だったようだ。伊之助はもちろん、喧嘩相手の男の方も鬼一郎に向かって頭を下げた。


 伊之助が幾分落ち着いた様子で口を開く。

「大変申し訳ありません。処罰は甘んじてお受けいたします。しかし今は、どうしても鬼一郎様にご報告したいことがございまして」


 床板を見つめながら話しているはずの伊之助の目が、晴彦を射抜いた気がした。それに気付いたわけでもないだろうが、鬼一郎が初めて晴彦に注目する。


「……それは、そこの人間のことか」

「はい。本人は、迷い込んだなどと申しています」

「なるほど。火急の用件ではあるな」


 鬼一郎は顎に手を当ててしばし考え込むと、やがて一つ頷いて、晴彦に向き直った。伊之助とは対照的な柔らかな表情だ。

「良かろう。私の権限で、姫様の御前に出ることを許す。ただし」


 鬼一郎は言葉を切ると、途端にその目に鋭い光を宿す。人間とは異なる瞳孔の形を見て、ああこの人も鬼なのだな、と思った。

「姫様の前で不審な行動を起こすなよ。居合斬りを手加減できるほど、私は器用ではないのでな」


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