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二匹揃って持ち場を離れるわけにはいかない。だから晴彦を連れて行くのは、阿形の役目になった。阿形は晴彦に「付いて来い」と言うと、返事も待たずに建物のある方向へと進み始めた。しかしすぐに右に曲がると、正面に見える建物からどんどん遠ざかる。
「あの建物に向かうんじゃ、ないんですか?」
「阿呆。すぐさま拝殿に向かう奴があるか」
呆れ顔で阿形が晴彦を振り返った。
「東の対の向こうに車宿がある。お前は不法侵入者であるわけだし、きちんと玄関口から入るのが良かろうよ」
まあ、すでに中に入っているがな、と言って阿形は笑う。大きく口を開けるたびに、吽形よりもいくらか小ぶりの尖った牙が見え隠れする。晴彦は相槌を打とうとしたが、阿形が何を言っているのか、さっぱり分からなくて、つい気のない返事になってしまう。
「はあ、そうですか」
車宿って何だろう。ニュアンスから考えると、駐車場のような所に思える。
そもそも晴彦はきちんと鳥居を潜って来たのだが、あれは正面口ではなかったのか。
阿形が横目でちらりと晴彦を見ると、一つ溜め息をついた。
「向こうに、拝殿と似た建物が見えるだろう」
「あ、はい。見えます」
正面に見えていた建物は横長だった。それをそのまま九十度回転させたような建物が、確かにある。
「あれが東の対だ。そこから伸びている廊に、門がついているだろう? 見えるか? そう、それだ。その奥が車宿。車を止めておく場所だ」
「山の上なのに、自動車を使う人がいるんですか?」
晴彦が登ってきた山は険しく、とてもじゃないが自動車で登れるような傾斜ではなかった。驚いた晴彦が問うと、阿形は片方の眉をぴくりと上げて、石の額に皺を寄せた。
「じどうしゃ? 何だ、それは」
「えっ。だって、車って」
「……ああ」
戸惑う晴彦の様子を見て、阿形はようやく得心がいったらしい。怪訝な表情の晴彦から目を逸らして、東の対のさらに向こう、遥か遠くの空を見つめた。現世を離れて久しいからな、との呟きが聞こえた。
「なるほど、今の世では、じどうしゃという車を使っておるのか」
「……ここで言う車は、違うのですか?」
「違う」
遠い空を見つめたまま、阿形はきっぱりと言い切った。
「網代車がほとんどだ。無論、それを引くのはただの牛ではないぞ。空を飛ぶからな」
「牛……が、飛ぶのですか」
「飛ぶ」
「鳥じゃなくて?」
「牛だ。網代車は牛車だからな。
もしや、そのじどうしゃとやらは、鳥に引かせるのか?」
阿形は素で言っている様子で、それがなんとも恐ろしい。
「違いますよ……」
素直に阿形の言うことを信じるなら、牛車は空飛ぶ牛に引かれるから、山の上でも問題なく使うことができるということか。空を飛ぶ獣を、果たして牛と呼べるのかということは別問題として。
阿形は喋りながらも、歩く速度は落とさない。それでもこの神社の敷地は恐ろしく広く、晴彦たちはまだ池の端にも辿り着いていなかった。
足元を、細く澄んだ流れが通り過ぎていく。流れは涼やかな水音を立てて、先ほどの大きな池に流れ込む。錦鯉が遠くで跳ねた。小さな橋を渡りながらそれを眺めていると、阿形が得意げに鼻息を荒くした。
「美しかろう。しかし、こんなもんじゃあないぞ。この遣水には、夜になれば鬼火が飛び交うのだ」
「鬼火……」
晴彦は鸚鵡返しに呟いて、この不思議な場所では、もう何を言われても驚くまいと思った。
点滅を繰り返す求婚の光が、多様な花の間を飛び交う様は、それはそれは美しい光景なのだと、阿形は目を細める。阿形の口ぶりから察するに、どうやら鬼火とは、蛍のようなものであるらしい。
遣水を自慢する阿形だったが、晴彦の関心は別のところにあった。……阿形は今、多様な花と言った。
「阿形、さん」
「何だ」
「どうしてここには、四季全ての花が咲くのですか?」
参道と同様に、この庭に咲く花も季節を問わず咲いている。問われた阿形はぴたりと立ち止まって晴彦を見上げた。そのまま進んでいた晴彦は、つい阿形を追い抜きそうになって慌てて止まる。
「お前……本当に何も知らんのだな」
その眉尻が下げられ、瞳に哀れむような色が混じる。尾までが力なく垂れ下がった。
「今確信したわ。お前は、己の意思とは無関係に、ここに連れて来られたのだと」
もし何らかの陰謀を抱えてこの世界へ来たのなら、それほど無知で無邪気ではなかろうと、阿形は言った。
「石長姫様と、佐久夜姫様を存じておるか?」
晴彦は目を瞑ってかぶりを振る。阿形は「やはり、そうか」と独り言のように呟くと、歩きながら話そうと言って、車宿へ歩を向けた。
「先ほども少し言ったが、二柱は大山津見神の娘御だ」
山の神の娘である二柱も当然のことながら、神であるという。ここは神の社。大山津見神の家族が暮らす、神域なのだと。
つい眉を顰める晴彦であったが、阿形は気付かないのか、気にしていないのか、遠慮なく話を続けた。
「姉である石長姫様は、永遠を司る神でな」
岩のように、永き時を経ても変わらぬ姿を保つ加護を、与えることができる。そして妹の佐久夜姫は、花開くような繁栄を約束する神であった。
父神である大山津見神はこの社を留守にすることが多いが、二柱の姉妹はほとんど外に出ることがない。
「もう何世紀もの長きに渡り、この世界は二柱の加護を受けた。
その結果、佐久夜姫様の力によって庭の花は例外なく咲き乱れ、石長姫様の加護によって、その花は散ることを知らぬ……そんな庭ができあがったのだ」
阿形は晴彦を見上げ、口の端を歪めて笑った。
「信じられんか?」
「えっ? あ、その……えっと」
晴彦は「はい」とも「いいえ」とも言えなくて、なんとも情けない声を出した。しかし阿形は気を悪くした様子など微塵も見せずに、ぽつりとこぼした。
「致し方のない話だのう。人の子の信仰が薄れて、もう百年にもなる。まして、人の子は薄命。年若いお前に、神の逸話を信じろというのは、酷なのであろうなぁ」
笑っているはずの阿形の瞳は、ひどく寂しそうに見えた。何か声をかけたくなって言葉を探すが、何を言っても空虚に響く気がして、晴彦はただ黙っていた。
そのままどちらも何も喋らずに、車宿のある中門まで辿り着いてしまった。中門の外には人がいるようで、晴彦の耳までざわめきが聞こえてくる。
「おぅい。誰か、おらんか」
久方ぶりに阿形が声を張り上げる。すると中門のすぐそばの建物から足音が聞こえた。そちらに目をやると、黒い格子窓のようなものが開け放たれているのが見える。格子窓は外側に折りたたむようにして、下から上に持ち上げられていた。
その中からひょっこりと顔を出した生き物は、どこからどう見ても鬼そのものだった。
鬼の頭部には、意外と可愛らしいサイズの角が二本、ちょこんと乗っている。しかし鬼の体格そのものは人間にかなり近い。筋骨隆々のプロレスラーが平安装束のコスプレをしたら、きっとこんな感じになるのだろう。
「阿形のじいさんじゃないか。どうしたんだよ、持ち場を離れるなんて」
「非常事態だ。人の子が紛れ込んでおった」
阿形の言葉を聞いて、鬼は初めて晴彦に気付いた様子だった。晴彦は鬼と目が合ったので、内心ではひやりとしながらも、とりあえず友好的に笑いかけた。笑顔は万国共通の挨拶だと、小学生の頃に道徳の授業で習った。
しかし鬼は血相を変えて晴彦を指差した。ただでさえ赤らんだ顔をしているから、ものすごい顔色になっている。どう見ても歓迎などされていない。
「に、に……人間!」
まるで幽霊でも見たかのように、その顔が引きつっていた。一方で晴彦のほうはというと、ここに来るまでに色々とありすぎたからか、自分でも驚くほどに平然としたものであった。
「ちょっと、じいさん。どういうことだよ。なんで人間がいるんだ!」
「まあ、落ち着け」
「これが落ち着いていられるか! まずいよ、こんなときに人間が忍び込んでいるなんて!」
「こんなときだからこそ、焦るなと言うておるのだ」
繰り返し繰り返し、阿形は鬼を宥めた。やがて鬼も多少は落ち着きを取り戻したようで、むやみに晴彦を指差したり、叫んだりすることはなくなった。
「……でも、どうするんだ、そいつ」
とても厄介な仕事を押し付けられた。そう主張するような目で鬼は晴彦を睨みつける。わざとだろうが、対する阿形はぱたぱたと尾を振り、なんとも気楽そうに振舞っている。
「なに、ちょいと石長姫様か佐久夜姫様にご報告できれば良いのだ。
ああ……無論、お前は鬼一郎にでも頼めば良い」
孫にお使いでも頼むような気軽さで、阿形は「頼めるな?」と聞いた。
鬼は濡れた新聞紙よりも皺の寄った顔を晴彦に向けて、やや躊躇った後に、しぶしぶ頷いたのだった。