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最後の花が散るまでは  作者: 佐倉杏
神の社
3/28

 背後にはアスファルトで舗装された細い道路が、左右に伸びているはずだった。なのに実際に晴彦の目に飛び込んできたのは、まっすぐ前に伸びていく、土で固められた大通りだ。車線も何もあったものではない。

 道の両端には、何やら白く塗られた壁があった。その壁は晴彦の頭よりも高く、手を真上に伸ばしたとしても、指先が壁の上に出ることはないだろう。ちょうど頭の部分には、瓦屋根のようなものが乗っている。


 どこかで見たことがある気がして、晴彦は首をひねった。しばらく考え、やがて気付く。

(そうだ、時代劇で見たことがあるんだ)


 たしか築地塀とか呼ばれていた気がする。無論、晴彦の地元は時代劇のロケ地ではない。

 晴彦はごしごしと目を擦った。それでも足りないと、今度はぎゅっと力を入れて目を瞑り、恐る恐る開く。見間違いではなかった。どう間違えても、この光景が見慣れたアスファルトに化けるとは、到底思えない。


 晴彦はもう一度後ろ、つまり先ほど見た鳥居のほうを向いた。やはり大きい。

(山上神社の鳥居は、せいぜい三メートルの高さ……だったのに……)

 ところが今晴彦が見上げている鳥居は、小さく見積もっても十メートルはありそうだ。更によく見ると、その形も、書かれている文字も、山上神社のものとは異なっている。


 山上神社の鳥居は、一番上の部分、つまり笠木と島木が地面と平行に、まっすぐ伸びていた。ところがここにある大きな鳥居は緩やかなカーブを描いている。またその足元はしっかりとした台石に支えられており、それは山上神社の鳥居には見られない特徴であった。


(俺は、山上神社の鳥居を潜ったよな……?)

 すでに揺らぎつつある晴彦の確信は、鳥居の額束に書かれた文字を読み上げるにつれ、がらがらと音を立てて崩れ落ちていく。山上神社、などという読みやすい文字は、そこに並んでいなかった。


「おおやま……つ……けんじん?」

 そこには『大山津見神』と書かれていた。どこぞの神様の名だろうか。


(いや、普通鳥居に書くか? 神様の名前を)

 少なくとも晴彦は、そんな例を聞いたことはなかった。しかし今は、その程度の不思議など気にもならなかった。気が付いたら知らない場所にいました、なんていう現状よりも奇妙なことなど、あろうものか。


 古典的だが、とりあえず自分の頬を抓ってみる。

「いひゃい」

 痛みは感じる。感じるが。

(夢だろ。どう考えても)


 あまりに現実離れした状況に放り込まれると、かえって人は冷静になるらしい。もしこれが変に現実的な夢だったら、それに気付くことができたのか、甚だ怪しい。

 できたらいいな、とは思うけれど、瞬きの間に人が移動するなど、絵空事であることを晴彦は知っている。晴彦はきっと、図書館で居眠りをしているのだ。でなければ、一体どんな不思議の国に迷い込んだというのだろう。


 夢であることに納得すると、途端に落ち着きを取り戻した。そのうえ大胆にも、鳥居の向こう側を覗いてみたくなる。

(だって、どうせ夢なんだから、楽しまなきゃ損じゃないか)


 鳥居があるのなら、その向こうは神域で、つまり神社があるのだろう。神社に参拝客が一人増えることで、誰に迷惑がかかるでもない。いや夢であれば、迷惑など考える必要さえないのだ。

 とうとう好奇心を抑えることができなくなって、晴彦は鳥居を潜った。今度は先ほどのような目眩に襲われることはなく、幾分か安心した。


 鳥居を通って初めて見えてきた参道には、山上神社が可愛く見えるほど急な階段が拵えてあった。一瞬、これを登るのかと思ってげんなりしたのだが、これが夢であることを思い出すと、晴彦は急に元気を取り戻す。だって夢であるならば、ここに体はないはずで、つまり今の自分は、肉体的な疲労とは無縁のはずだ。

 だが実際は晴彦の予想は大外れで、それからいくらも経たないうちに、肩で息をする羽目になった。立ち止まって汗を拭う。登ってきたほうを振り返ると、まだ石鳥居がすぐそこに見える。ちっとも進んでいない。


 だがそれは、ひとえに晴彦の運動不足のせいだけ、とは言い切れなかった。何しろこの階段は、一段一段がやたらと大きいのだ。もし人間の平均身長が三メートルほどもあれば、問題ないのかもしれないが、残念ながら晴彦の身長は百七十二センチしかない。単純に足の長さが足りなかった。


(誰だよ、この階段作った奴。一体どんな計算して作ったんだ)

 登るほうの身にもなってほしい。まるでアスレチックのようではないか。しかも、同じ難度の障害が延々続くという、苦行のような遊具だ。


 参道の端で座り込んで休憩していると、ほうほけきょと鳴く鳥の声が聞こえた。つられて空を見上げると、一羽の時鳥が飛び立つのが見えた。咲き乱れる桜の花と黒褐色の羽が、青空によく映えた。こういう風景を、春の風物詩と呼ぶのだろう。


 つい頰が緩む晴彦であったが、次の瞬間、穏やかだった表情が石のように強張った。

 桜の隣で、寒椿が咲いている。


 寒椿は桜よりよっぽど濃い紅色をしていて、見事な八重咲きで己の姿を強調していた。桜よりも低い位置で咲いているせいで、すぐには気付かなかったが、色の強い花びらは空の淡い青とは対照的で、桜とはまた違った趣がある。

 それは良いのだが、問題なのは寒椿の開花時期である。


(たしか、受験のときに道路脇に咲いてたような……)

 伊達に寒椿などと呼ばれているわけではないのだ。花の見頃は冬である。繰り返すが、今は春。四月の終わりだ。

 よくよく見れば、寒椿だけではない。あちらには桔梗、こちらには金木犀、向こうには紫陽花。四季折々の花が入り混じって咲いている。


 もはや恐怖にも近い気持ちで顔を引きつらせた後、ようやく晴彦は思い出す。

(ああ、そうだ。これは夢だった)


 つい忘れそうになるほど、この世界は現実味を帯びていた。五感全てに違和感がない。陽光の暖かな光も、小鳥のさえずりも、花の匂いも、足裏に感じる石段も、排気ガスの混じらない爽やかな大気も。現のことに思えてならない。


 小さく頭を揺すって、ちらと浮かんだ考えを地面に振り落とした。何を馬鹿なことを。この歳になって、夢と現実の区別もつかないのか。


 それから晴彦は、かなりの時間をかけて参道を進んだ。しっとりと汗ばんだ体が気持ち悪い。シャワーを浴びたい。いやその前に、水が飲みたい。

 脳内が現状への文句でいっぱいになった頃、ようやく石段は終わりを見せた。


「……おぉ」


 晴彦がつい感嘆の声をあげた。そこは神社と呼ぶには、あまりにもきらびやかな世界だったのだ。

 晴彦の眼前には、これまでと同じように石造りの参道が伸び、その両脇を石灯籠が囲んでいる。まだ昼であるから火袋に灯は入っていないが、夜になれば、石灯籠に彫られた緻密な細工が妖しい陰影を作り出すのだろう。黒い夜に浮かび上がる石灯籠の炎。それはきっと、ぞっとするほど美しい光景に違いない。


 さらに参道を進むと、広大な庭のような場所に出た。湖と呼んでも差し支えないであろう大きさの、瓢箪型の池が左右に広がっており、参道は瓢箪の窪んだ部分を区切るように架けられた反橋に繋がっている。


 晴彦はきょろきょろと落ち着きなく辺りを見回した。池には左に一つ、右に二つ、中島が浮いている。右手前にある島は地面が盛り上がっていて、小さな丘のようだ。その上には紅葉の木が生えている。

 紅葉が赤く色付いていないことに逆に驚くが、よくよく見ると、枝の先には控えめな紫色の花が付いていた。季節感を無視した植物の不思議に、晴彦は思ったよりも早く適応しているみたいだ。


 左の池のずっと奥のほうには、大きな滝も見える。隣の山からこの池に流れ込んでいるらしい。白く砕けた水の塊が陽の光にされされて、きらきら光っている。


 橋を渡りきると、ようやく神社らしいものに出会った。狛犬だ。二匹の狛犬はよく見れば表情豊かで、向かって右は間が抜けたように口を大きく開けているが、左はきりりと澄まし顏をしている。

 狛犬の向こうには、和風で巨大な建築物が広がっていた。横長で一階建ての建物は、手前側が大きく開け放たれている。遠くてよく分からないが、何人もの人が行き交っているようだ。


 ほんの少し高くなった床も、黒い瓦の屋根も、まるで国語便覧に載っている寝殿造りだ。どうやら晴彦は、古典の勉強中に居眠りを始めたらしい。


「夢でこのくらい再現できるのに、なんでテスト問題は解けないんだか」

 つまり知識は足りているが、読解力が足りないということか。


 なんとも情けない表情で後ろ頭を掻いて、右の狛犬の肩に手を置いた。そのとき、低く鋭い声が、どこからか飛んできて晴彦を打った。


「無礼な!」

 突然の大声に晴彦は飛び上がった。手足の先まで、ぴしりと気を付けの姿勢を取り、声の主を探す。しかし右を見ても左を見ても、ここには誰もいない。


「えっ? 何? 誰?」

 そんな晴彦の様子など御構いなしに、声は言葉を継いだ。


「もしや、石長姫様か佐久夜姫様がお呼びになった御使者かと思うて放っておけば、なんともまあ礼儀を弁えぬ愚か者よ。これが御使者のはずがない。のう? 吽形よ」

「無論だ。この男が侵入者であれば、気取られぬように大鬼どもに伝える腹積りであったが、我らが神使ではないからといって、これほど軽んじられて黙っているなど、できはせぬ。のう? 阿形」


 声が増えた。今度は後ろを振り返る。やはり誰もいない。

「あ、あの……。失礼なことをしてしまったのならば、謝ります。すみませんでした。それで、その……二人は今、どこにいるんですか?」

 どちらを向いて話したらいいか分からなくて、仕方なく今来たばかりの反橋を見つめながら頭を下げた。


「ふむ。非を認める程度の良識はあるようだ」

 口調が少しだけ和らいだ。同時に、口を開けた狛犬がむくりと起き上がって、晴彦のほうへ振り向いた。石でできた体はとても硬そうなのに、実に滑らかに口が動く。


「初めから素直にそう言えば良いものを。

 だが、まあ、弱き者の愚行を見逃してやるのも、高貴なる者の務めよ」


 許してやるから気にするな、ということらしい。しかし晴彦は狛犬の言葉の内容よりも、狛犬が喋って動いているという事実に打ちのめされていた。目がこぼれ落ちるのではないかと思うほどに瞼を開く。

 口を閉じていた狛犬も続いて動き出し、石の台座から飛び降りた。晴彦の足元までとことこと進むと、首を傾げて晴彦の顔を覗き込む。


「何を惚けておる、人の子。ただでさえ締まらない顔なのだ。余計に阿呆に見えるぞ」

「いえ、その……。何でもないです」

 頭に浮かんだ疑問を口に出しても、狛犬の理不尽な罵倒に反論しても、どのみち馬鹿にされそうだった。


(これは夢。夢、夢、夢!)


 呪文のように何度も唱えた。『夢』の文字が積もっていく量に比例して、晴彦は落ち着きを取り戻す。そうして脳内が『夢』でいっぱいになった頃、両手で自分の頬を張って、「よし」と小さく呟いた。


「失礼しました。取り乱しました。けど、もう大丈夫です」

「……自傷をするなど、あまり大丈夫には見えなんだが」

「大丈夫です」


 狛犬の目を見つめた晴彦がはっきりと言い切ると、狛犬は石の頰を少し引きつらせて、「まあ、ならば良いのだが……」と呟いた。そして台座に乗ったままの狛犬に顔を向けると、鋭い牙を覗かせながら口を開いた。


「阿形、何をしている。お前もこっちへ来んか。不審者への尋問は、お前の担当だろう」

「じ、尋問……?」

 穏やかではない単語だ。先ほど固めたばかりの覚悟があっけなく揺らぐ。くるりと背を向けて、この場から走り出したくなる気持ちを必死に抑えて、晴彦は唾を飲み込んだ。逃げたりしたら、それこそひどい目に遭いそうだ。


 晴彦は祈るような気持ちで、阿形と呼ばれた狛犬が台座から降りるのを見つめていた。

「では問おう。お前は一体何をしに参ったのだ」

 阿形は晴彦の足元にいる吽形の隣に移動して、お座りの体勢になる。いきなり噛み付かれたりしなかったことに、晴彦は内心で胸を撫で下ろした。


 いつまでも見下ろしているのも失礼な気がして、晴彦はなるべく彼らの視線に合うようにしゃがみ込んだ。けれど念のため、すぐに動けるように、片膝をつくだけに留める。

「何をしにって言われても……」

 答えを持たない晴彦は、気まずそうに頬を掻いて黙り込む。視線を迷わせたまま黙っている晴彦に眉根を寄せ、阿形は質問を変えた。


「では、どうやってこちらの世界へ来たのだ。ここは本来、人の子がおいそれと来れるような場所ではないのだが」

「どうやって……って」


 夢の世界に行くにはどうしたらいいか? 眠ればいいのだ。だが、その回答はこの場にそぐわないだろう。

 再び眉を下げる晴彦に、阿形は俯いて首を振った。阿形には立派なたてがみが生えているのだが、石でできているためか、その動きに合わせて揺れることはなかった。


「それも分からんのか……」

「すみません……」

 悪いことをしたわけではないが、何だか申し訳なくて、晴彦はうなだれた。阿形はぶつぶつと独り言で「そもそもただの人の子が、何の助けもなく来られるわけでもなし。だとするとやはり……うむ……」と呟いている。


 いつまでも進まない議論に飽きた様子で、目を瞑った吽行が尾を振る。

「阿形、これは、無理だ。我らの手には余る」

「しかし、ならばどうする」

「無論、姫様方に判断を委ねるしかあるまい」

 吽形の提案に、阿形も納得したようで、しきりに頷いている。


「うむ、そうであるな。珍事であることだし、姫様方に任せよう」

 晴彦は話の流れを察し、自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。なんだか事が大きくなっていく。

「あのぅ……姫様って?」

 問われて、阿形と吽形は自分のことのように誇らしげに胸を張った。


「無論、この社の主人にして、山の神であらせられる大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘御、石長(いわなが)姫様と佐久夜(さくや)姫様、二柱の女神のことである」


 何が何やら、わけの分からないことばかりだが、このときになってようやく、晴彦は鳥居に書いてあった文字の読み方を知ることができたのだった。


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