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最後の花が散るまでは  作者: 佐倉杏
神の社
2/28

 もう十二年も前の話になるが、晴彦が初めて小咲に出会ったのは、やはり山上神社の桜の下であった。父が仕事の都合で、二年ほど家を空けることになり、それが寂しくて一人泣いていた晴彦の涙を拭ったのが、小咲だったのだ。


 晴彦の父が勤めていたのは、業界でも大手と呼ばれるような会社で、必然的に海外にも多くの拠点を構えていた。晴彦が生まれる前、結婚してからますます気合を入れて、仕事に取り組むようになった父は、後学のため海外出張へ行くことを上司から勧められ、本当は母もそれに付いて行くつもりだったらしい。

 しかしそんな折、母が妊娠したことが分かった。初産はどうしても地元がいい。そう主張する母の意思を尊重し、父は母の出産を理由に、出張を延ばせないかと頼み込んだ。幸いすぐに代わりの者が見つかり、父の出張は白紙に戻された。


 晴彦が幼いうちは、人事課も色々と気を配ってくれて、家族三人で暮らすことができた。しかし晴彦が六歳を迎える頃に、再び出張の話が持ち上がった。一度自分たちの都合で断っている話だから、二度目も嫌だとは言い出しにくい。両親は何度も話し合って、単身赴任を決めた。

 今にして思えば、一度は出張を見送ってくれたうえに、子供が六歳になるまで長期出張を控えてくれていた父の会社は、かなり従業員に親切だと言えよう。しかし幼かった晴彦にそのような大人の事情など分かるはずもなく、ただ父が出て行ってしまうことがひどく悲しかった。


 一人息子であったためだろうか。両親はいくらか、晴彦を甘やかすきらいがある。だがこのときばかりは、泣いても喚いても両親が折れることはなく、一人不貞腐れた晴彦は家を飛び出して、近所の神社に駆け込んだ。


 なけなしの小遣いを賽銭箱に投げて、一心不乱に祈る晴彦を見て、宮司は首を傾げていたらしい。母に連れられて、しばしばお参りに来る晴彦の顔は、宮司にも見覚えがあったそうだ。しかしこの日は、母の姿が見当たらない。

 心配した宮司が何を聞いても、晴彦は首を振るばかりで要領を得ない。やがて晴彦は大桜の瘤の上に座り込んで、奥歯をぐっと噛み締めて山の向こうを睨みつけるだけになった。


「おや、まあ。どうしたの。何がそんなに悲しいの?」


 突然降ってきた耳慣れない声に、晴彦は弾かれたように振り向いた。そこには自分と同い年くらいの、可愛らしい女の子が立っていた。

 晴彦は目を皿のように丸くして、その女の子を見た。何しろ、これほど見事な振袖を着た女の子など、晴彦はついぞ見たことがなかったのだ。今日、この辺りで祭りでもあったのだろうか。だとしたら、晴彦の耳にも入っているはずなのに。


「話してみてよ。きっと少しは、気が楽になるから」

 彼女の頭の中に、プライバシーなどという概念は存在しなかったに違いない。くるくる回る無邪気な瞳を向けた女の子は、無遠慮に晴彦の隣に座り込んだ。それを見た晴彦は、着物に砂汚れが付くことをまず心配した。着物が安いものではないことくらい、幼い晴彦も承知していたからだ。


 しかしそれを指摘されても、女の子はなんてことないと言うように、あっけらかんと笑う。

「着物は、洗えば済むもの」

 けれど悲しい気持ちは、洗い落とすことができない。誰かが側にいて話を聞いてあげることが、唯一の解決方法だという。


 正直、余計なお世話だと思った。見ず知らずの人間だというのに、図々しい。だけど、不思議と不愉快ではなかった。女の子の様子が、あまりに真剣であったからかもしれない。

 この子なら、話しても馬鹿にせずに聞いてくれる気がした。けれど晴彦も男の子であったから、女の子の前で弱音を吐くのは憚られた。


 悩みに悩んで、晴彦はてんで見当違いの答えを返すことにした。

「君……名前はなんていうの?」

 女の子は何が嬉しいのか、一番初めに咲いた桜のように、ぱっと顔を綻ばせると、「小咲」と一言告げた。






 それから晴彦は、ことあるごとに神社へと訪れるようになった。春の間に限った話であるが、かなりの確率で小咲は神社にいた。もしや宮司の娘ではないかと疑ったこともあるのだが、宮司には息子しかいないらしく、晴彦の予想は的外れであった。

 秘密だらけの小咲だが、それを不思議に感じる頃には、問い質すにはもう今更かと思うほどに月日が経ってしまっていた。誰にだって、聞かれたくないことの一つや二つ、あるだろう。そう思うことにして、晴彦は小咲の素性について深く考えることをやめた。


 十二年たった今も、そのスタンスは変わらない。そりゃあ、気にならないと言えば嘘になるが、知ったところで何が変わるでもなく、小咲は小咲のままなのだ。







 図書館を出た晴彦は、この日もまた神社への道のりを進んでいた。今日は珍しく早起きができたので、いつもよりも早く勉強を始めた。だからいつもより早くに切り上げた。まだ日が高いうちに図書館を出るのなど久々で、随分と機嫌が良かった。


 実は、三度持ち上がった父の海外転勤の影響で、つい先月まで家族三人で暮らしていた二階建ての一軒家には、今、晴彦が一人で住んでいる。だから家で勉強していても、生活音のせいで気が散る、といったことはないのだが、それは同時に、勉強机の後ろに山と積まれた漫画やゲームの誘惑に対する抑止力もないということだ。


 長い浪人生活、根を詰めても仕方がないし、図書館は勉強するところ、自宅は遊ぶところ、とはっきりと分けることに決めた。つまり図書館を出た今、晴彦は晴れて自由の身。今日はこの後、漫画を読んだりテレビを見たり、ゲームをして遊ぶのだ。


 そうだ。自宅へ帰る前に、小咲と少しお喋りしよう。鼻歌交じりに進む晴彦の目線の先には、未だに花を散らすことのない大桜が天に枝を伸ばしている。


(もう花が咲いて、何日になるっけ?)


 ぼんやりと考えて、空に咲く花を見上げながら、晴彦は首を傾げた。学校の入学式の時期にはもう満開であったから、花が綻び始めた日から数えると、かれこれ一ヶ月は経つだろう。だというのに花びら一枚すらも散らすことなく、大桜は時が止まったかのように咲き誇っている。


(一ヶ月も、桜って咲き続けられるものだったかな)

 いくらなんでも、長すぎやしないだろうか。そういえば前に会ったとき、小咲もそのことを気にしていた。


(……考えすぎかな)

 今年は例年よりも、気温が低かった気がする。そして桜の開花時期は、気温に大きく影響されるとニュースで言っていた。きっとそのせいだろう。


 気を取り直して前を向き、緩やかな上り坂に差し掛かったとき、カーブの先、三叉路の前でしゃがみ込んでいる女性の後ろ姿が目に入った。

 顔を俯き加減にしているせいで、首の後ろから髪がさらりと流れ落ちている。遠目にも分かるほどに白いうなじが、日の光に惜しげもなく晒された。女性は長いスカートの裾が地面を引きずるのも気にせずに、じっとして動かない。


(どうしたんだろう)

 すぐに駆け出して、「大丈夫ですか」と声をかけようかとも思ったが、もし不審者扱いされたらどうしよう、と要らぬ不安が頭を過る。もしかしたら、靴紐を結び直しているだけかもしれないじゃないか。けれどもし、急病で動けないのだとしたら?

 どう動くか決めきれぬまま、晴彦と女性の距離はみるみるうちに縮んでいく。


(……あれっ?)


 近くに来ると、その女性が晴彦のよく知る人物であることに気付いた。あれは、小咲じゃないか。

 相手が小咲だと分かった途端、晴彦の緊張は一気に緩んだ。気軽に声をかけようと右手を上げたとき、先ほどまで微動だにしなかった小咲が、ぱっと立ち上がった。

 いつになく硬い表情の小咲は、晴彦に全く気付くことなく、立ち上がった勢いそのままに走り出した。行き場をなくした右手をふらふらと揺らして、晴彦はゆっくりと手を下ろす。そして視線を小咲から道路に戻すと、先ほどなぜ小咲が道端に座り込んでいたのか、その理由を悟った。


「道祖神があったのか」

 三叉路に差し掛かる、ちょうどその中央に、小人のようなサイズの男女が手を繋いで、道行く者たちの安寧を祈っていた。ここはいつも通る道なのだが、小さな神様であるが故に、晴彦もすっかり失念していた。

 だとすれば小咲は、きっと熱心にお参りしていたに違いない。にわか仕込みの参拝しかできない晴彦とは違って、小咲は根っから信心深い。


(けど、なんであんなに急いでたんだろう)

 それに、小咲のあの表情。失礼な物言いであることは承知の上だが……小咲にも、あんな表情ができたのか。


 晴彦に目もくれず、大急ぎで駆け出した小咲を思う。つい悪戯心が疼いて、晴彦は口の端を軽く歪めると、小咲の後を追って走り始めた。

 自慢ではないが、晴彦は足には自信があった。高校の部活では陸上部に所属していたくらいなのだ。そのうえ、いくらか距離を離されているとはいえ、相手は女の子の足だ。簡単に追いつけるだろうと踏んでいた。なのに。


(ぜ、全然っ、距離が縮んでる気がしないっ)


 離されもしないが、追いつけもしない。知らなかった。小咲がこんなにも駿足だったとは。

 そのうちに息が上がって、少しずつペースが落ちてきた。一方の小咲は変わらぬ速さで駆け続ける。二人の間にはゆっくりと、だが確実に距離が生まれていく。


 突然、小咲が止まった。といっても晴彦に気付いたわけではない。小咲は辿り着いた山上神社の鳥居の前で、両手を揃えて目を瞑った。その後、今度はゆっくりと鳥居を潜って神域へと踏み込んだ。

 息を切らした晴彦もやや遅れて、山上神社の鳥居の前に辿り着いた。まっすぐ伸びた階段を見上げ、愕然と口を開く。


 小咲の姿が、どこにも見えない。まさかこれほど短い間に、この長い階段を登り切ったとでもいうのだろうか。ゆうに五十段はあろうかという、この階段を?


 晴彦は戸惑いながらも、とにかく自分も中に入ることにした。会釈をして、慣れ親しんだ鳥居を抜ける。するとそのとき、なんとも言えぬ、不思議な感覚が晴彦を襲った。

 言葉にどう表せばいいものか、語彙力のない晴彦には判断がつかない。濃度の薄い水飴を潜り抜けたような、形のある雲に突っ込んだような、不可思議な感覚。瞬間、視界が不案内になり地面が揺らいだ気がした。


 それが治ったと思うと、次いで日本中の花を掻き集めてブーケにしたような、強い香りが漂い始めた。春であるから、あちこちから花の香りがすることはある。だがこれは、そんな次元の話ではない。もっと根本から違う、密度の濃い匂い。


 次に感じた異常は、天を突くように聳える石鳥居が目に入ったことだ。晴彦の記憶が正しければ、山上神社に鳥居は一つしかなく、しかもそれはこれほど立派な代物ではなかった。荘厳な雰囲気すら醸し出している鳥居は、己の存在を誇るようにして仁王立ちしている。

 鳥居の向こうには、山上神社と同じように、山の頂へ向かう道が続いていた。しかしその山も、晴彦のよく知る、もはや丘と呼んだほうが近いのではないか、と思うようなものではない。登るのに専門の装備が要るのではないか。そう疑うほど大きく険しい山は、濃い緑の匂いを漂わせている。


 晴彦のいる位置からでは、参道の先がどうなっているか分からない。参道は木立に隠されて、山の中にすぅっと溶けて消えていくのだ。

 あんぐりと口を開けたまま、晴彦は後ろを振り返った。するとそこには、さらなる驚きの光景が広がっていた。


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