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最後の花が散るまでは  作者: 佐倉杏
神の社
1/28

長さとしては、普通の文庫本一冊分くらいになります。

毎日18時に更新予定です。

楽しんでいただけたら幸いです。

 なんとも珍しいことに、四月も中旬になるというのに、山上神社の大桜は満開であった。


 すっかり暖かくなった空気が、晴彦(はるひこ)の短い髪の間をすり抜けていった。髪の乱れを気にするほど容姿に気を配っているわけではないが、さすがに目にかかっては邪魔だ。晴彦は鬱陶しそうに左手で髪を押さえつけた。


 風上に目を向けると、大通りに面したコンビニの向こう、五、六棟が連なる住宅団地の後ろから、大桜に彩られた山上神社がはみ出して見える。揺れる花を抑える手を持たぬ大桜が、風にその身を預けていた。


「大桜はね、江戸彼岸っていう珍しい品種なのよ」


 初めにそう晴彦に教えたのは、確か母だったと思う。街路樹は染井吉野。大桜は江戸彼岸。どっちも見れるなんてお得ねと、走ってタイムセールに間に合った時のような笑顔を晴彦に向けた。


 そうは言われても、女っ気のない晴彦に花の僅かな差異など分かるはずもない。晴彦にとって江戸彼岸とは、古くて大きな、早咲きの桜。その程度の印象しかなかった。


 事実、江戸彼岸は、染井吉野よりも少しだけ開花が早い。まだ他の桜が寒さに縮こまる中、先導して春を告げる大桜は、地元民から深く愛されている。

 しかし早くに咲いた花は、早くに散りゆくのが宿命である。この地域では、江戸彼岸はおよそ三月末まで咲き、その後を染井吉野が引き継ぐ、というのが常識だ。


 そのため双方の桜が、同時に満開を迎える様を見ることはできないのだが、今年に限っては話が違った。入学式のシーズンを迎えても散らない江戸彼岸を見て、「今年は大桜も、皆の入学を祝ってくれているね」と、おめでたい考えを持つ誰かが言った。


 もしそれが本当ならば、きっと大桜は自分を嫌っているに違いない。浮かれた噂話を聞く度に、晴彦は少々……いや、かなりなところ、うんざりとした気分になる。


 田崎晴彦は、浪人生だった。

 毎日毎日、朝から晩まで机に齧り付くようにして勉強した。さぼった覚えはなかったし、自分にしては頑張ったと思う。

 特に何が学びたいというような、強い目標があったわけではないが、現代の高校生の一体何割が、明確な将来のビジョンを持って受験に臨んでいるというのか。晴彦もその例に漏れず、これまでの努力は全て、華やかなキャンパスライフのためだ。


 大学生といえば、人生の春である。社会人になる前の、最後の空白の時間。サークルやアルバイト、旅行で埋め尽くされる手帳。予定のない日は気の合う仲間たちと、無計画にどこかへ出かける。そんな素敵な毎日が待っていると思えば、辛い勉強にも身が入るというものだ。

 ところが受験の当日になって、これまでの疲れが出たのか、晴彦は風邪をひいてしまった。熱にぼうっとする頭で試験に挑んだが、結果は散々だった。それに気落ちしてか、合格確実と言われていた滑り止めの大学にも落ちた。


 晴彦が通っていた高校は、県内でもそこそこの進学校で、今まではまあ、順風満帆な人生を送っていたと言えよう。それが、こんなところでけちがつくとは。

 大学浪人など、珍しくもないさ。そうやって慰めの言葉をかけてくれた友人も多かったが、幸か不幸か晴彦の友人内で、浪人生になったのは自分だけ。他の皆は第一志望とは言わなくとも、どこかしらの大学には受かっている。


 卒業式後のクラス会は、辛かった。近所のファミレスに集まって、この先訪れるであろう美しい未来について皆が語る中、晴彦は一人、極力自分の影を薄くして、誰からも話しかけられないように小さくなっていた。

 お喋りに参加できないために手持ち無沙汰になった口が、せわしなくドリンクバーのメロンソーダを飲み込み続ける。そのことがほとほと情けなく、また消えたくなるほどに恥ずかしかった。


 大桜に祝福された友人たちの多くは、入学するとすぐに、大学のレクリエーションとやらで小旅行に出かけたそうだ。友人のインスタには、きらきらとした写真が山のように投稿されていた。

 よく知りもしない人間と一緒に宿泊なんて面倒臭い、と言っていた割には、随分と楽しそうじゃないか。本来であれば、友人の幸せを祝福するべきであるのに、つい恨み言を言ってしまう自分に嫌気がさして、最近はインスタを開いていない。落ちこぼれ。負け組。そんな言葉が、どうしても頭に浮かんでくる。


(……うまくいかないもんだなぁ、人生って)

 自嘲の混じった笑みを浮かべ、一人空を見上げる。

 どこまでも澄んだ青が、今だけは憎らしかった。


(あいつらは今頃、サークルの歓迎会にでも誘われてるんだろうな)

 テレビで見た程度の知識だが、大学のサークル勧誘はまるで祭りのようだと聞く。もし合格していれば、何の取り柄もない自分でも、新入生というただそれだけの理由で、引っ張りだこになっただろう。妄想の中の自分は、これ以上ないほど幸せそうに笑っていた。


(いいなぁ)

 現実の晴彦はというと、参考書で重く膨らんだリュックを担いで、とぼとぼと慣れ親しんだ図書館への道を歩いている。今年は予備校に通ったほうがいいかもしれない。もしまた来年も、どこにも受からなかったらと思うと、ぞっとする。それに予備校に通えば、同じ境遇の友人ができるかもしれない。


 晴彦は大通りから外れて、車がぎりぎりですれ違えるくらいしか幅のない、細い通りに入り込んだ。まるまる十八年暮らした、勝手知ったる街だ。図書館への近道も熟知している。

 そのとき、ふわりと風が吹いた。晴彦の遥か頭上で、大桜がさらさらと音を立てて風に揺れていた。一枚の花びらさえも落とさずに踊る桜は、晴彦の心を何やら優しげなもので満たしていく。


(息抜きも、大事……だよな)

 先ほど不満げな思いをぶつけたことなど都合良く忘れて、晴彦は大桜の元へと向かうことにした。図書館に向かっていた体を九十度回転させて、歩道を踏み潰して停車している白い軽トラックの横をすり抜けると、会釈をしてから石造りの鳥居を潜る。鳥居には古めかしい文字で『山上神社』と書かれていた。


 山上神社はその名の通り、小さな山の上に佇んでいる。だから鳥居の向こうには、すぐに登り階段が構えていた。両脇を豊かな深緑の木々に囲まれ、細切れになった陽光が降り注ぐ。光の破片が散りばめられた灰色の階段は神秘的で、なんだか異世界へ繋がる通路のようだった。


 晴彦はその階段を一歩ずつ、ゆっくりと進んだ。一年間の受験生活のせいで、すっかり鈍った体がじんわりと汗ばんでいる。

 長かった階段を登り終えると、晴彦は一つ息をついた。視線を上げた先には、何対もの石灯籠に挟まれた石造りの参道が、まっすぐ拝殿まで伸びている。数年前に工事をしたばかりの参道は、まだ真新しく歩きやすい。大桜があるのは、参道の途中に聳える神楽殿を右に抜けた先だ。


 しかし晴彦はすぐに大桜には向かわずに、まずは階段脇の手水舎で簡単に禊を行った。手水の正しいやり方など、現代人は知らない者のほうが多い中で、晴彦のそれは完璧であった。

 といっても晴彦の家が信心深いとか、そういう事情があるわけではない。神話マニアの母が、まだ幼かった頃の晴彦に教え込んだせいだ。その母も、どこぞの神様を模したキャラクターが出てくるアニメに夢中になって覚えたというのだから、感心すればいいのか呆れればいいのか、判断に悩むところである。


 禊を終えると、晴彦はようやく参道へと足を踏み入れた。数年前に工事したばかりの参道はまだ真新しく、とても綺麗だ。


 ここに来た目的が大桜であったとしても、神社におわす神様にご挨拶もなし、というのはいささか気が引ける。晴彦はしばしば大桜を見に来るのだが、その度に五円玉を賽銭箱に放り込んでいた。

 あまりに何度も来すぎたせいで、もはや願いごとを唱えることもなくなった。いつの頃からか、お参りの際には「いつもお世話になっております」とか「お邪魔いたします」とか、意味のないことを胸中で呟くのが習慣になった。


 もともと神社とは、願いごとを捧げる場所ではないはずで、だから晴彦は、本来の意図に適ったお参りをしているのかもしれない。しかし今となっては、いくらか不敬であってもいいから、大学合格を祈っておくべきだったと後悔している。

 今日こそは合格祈願をしよう。背負っていたリュックから財布を探り、小銭を取り出そうとした。


「げ……五十円玉しかない」


 ぱっくりと開いたがま口財布の中には、五円玉どころか、十円玉さえ入っていない。頼みの一円玉すら皆無だ。これでは最後の手段、一円玉を五枚使うという荒技にも出られない。五十円玉なんて、それほど多用する小銭でもないのに。眉を下げて葛藤するが、さすがに何も捧げずに願いごとをするのは神様に申し訳が立たず、泣く泣く五十円玉を財布から抜いた。


 財布を仕舞うと、晴彦はすぐに背筋を伸ばした。あまり金を惜しむような表情をしてはいけない。佇む二匹の狛犬が、晴彦の信心が足りないことを見抜こうと、眼光鋭く睨んでいる気がしたからだ。

 晴彦は拝殿の前まで来ると、三つ並んだ鈴のうち中央のものを選んで、がらがらと鳴らした。穴の空いた小銭を名残惜しそうに見つめてから、えいやと手放す。


 ぱん、ぱん。晴彦の両手が小気味の良い音を響かせる。

(今年こそは、合格できますように。頑張りますから、見守っていてください)

 結局はいつもと同じ、決意表明のようになってしまった願いごとを唱え終え、ようやく晴彦は踵を返して大桜の元へ向かった。参道から外れると、玉砂利が足元で音を立てる。これは踏んで良いものか毎回のように悩むのだが、踏まずに大桜へと向かう道がないのだから仕方ない。


 大桜は山上神社の端、街を見下ろせる場所で威風堂々と根を張っていた。その根元には節くれ立った老人の指のような、大きな瘤がある。見ようによっては異物にも見えるそれが、大桜が生きてきた年月を表すようで、晴彦は好きだった。


 続いて空を見上げれば、薄桃色が光にうっすらと透き通る。その向こうには小さな街並みと荘厳な山々が広がっていて、それが絵画のように美しいのだ。もう覚えてもいないほど昔から、毎年眺める景色だった。

 大桜はいつだって変わらずに、晴彦を迎えてくれる。


(変わってない……はずなのになぁ)

 景色はそれを見る人間の心持ち一つで、随分とその様相を変えるらしい。落ち込んでいる今の晴彦には、桜のカーテンの向こうに見える街並みはどこかくすんで映り、その美しささえもが、晴彦を見下しているように思えてならない。


 せっかく寄り道したのに、大した気分転換にもならなかった。小さく嘆息する晴彦の背後から、いやに馴れ馴れしい声が飛んできた。


「おや? おやおや? そこにいるのは晴彦くんではありませんかな?」


 晴彦はゆっくりと振り向いた。そちらを見ずとも、声で誰かは分かっていたが。

「小咲」

 肩で切り揃えた柔らかな茶色い髪をなびかせて、人懐っこい瞳にきらきらした輝きを湛えた少女がそこにいた。春らしいピンクのワンピースがよく似合っている。喜色満面という言葉を体現したようなオーラを全身から放つ小咲は、晴彦の昔からの友人だった。


「もう。まだ落ち込んでるの? たった一年寄り道するくらい、いいじゃんか」

 溜め息をつくと幸せが一つ逃げるのだ。真面目ぶった小咲が、頬を膨らませて主張する。

「違うよ。幸せが一つ逃げたから、溜め息をついてるんだよ」

「えぇ? そうなの?」

 小咲は晴彦の反論について、眉根を寄せて考え始めた。鶏が先か、卵が先か。

「幸せが逃げたから晴彦くんが溜め息をついて、でも溜め息をついたら幸せが逃げるから、また晴彦くんが溜め息をつくでしょ。だから、えっと……あれ?」


 それでは晴彦は、延々と幸せを逃し続けることになる。不幸のスパイラルだ。愕然とした表情で晴彦を見つめ、小咲が叫んだ。

「晴彦くんは幸せになれない!」

「縁起でもねぇ……」

 なんとなく頭痛がする気がして、晴彦は右手で目頭を押さえた。例えそれが迷信だと分かっていても、不幸になると声高に宣言されて、気分の良くなる者などいない。


 放っておくと、この無邪気で残酷な少女は、晴彦の不幸談義に花を咲かせようとするだろう。それはごめんだと、晴彦はいくらか無理矢理に話題を変えた。

「俺のことより、小咲はどうするんだよ。大学、行くの?」

「んーん。行かないよ」

「じゃあ、就職?」

「えぇ……。働くの?」

 嫌だなあと頭を掻く小咲が、嘘をついているようには見えない。けれど大学にも行かず、就職もしないというのなら、小咲もまた浪人生なのだろうか。


「今度、一緒に勉強する?」

 念のため、誘ってみる。勉強という言葉に、ぐっと躊躇いの色を浮かべた小咲は、苦虫を噛み潰したように顔中に皺を寄せ、しばしの沈黙を挟んだ。それからやっと、呻くように言葉を紡いだ。

「……隣で漫画、読んでてもいいなら」

 それは、一緒に勉強するとは言わない。どうやら小咲には勉強する気もないようだ。これで本当に浪人生だったら、自業自得としか言いようがないだろう。


 晴彦は「そういえばさ」と前置きして、ブラックコーヒーの一気飲みを果たした後の子供みたいな顔をした小咲に、なるべくさり気なく見えるように視線をやった。


「結局小咲って、今何してんの?」

 付き合いこそ長いが、晴彦は、実は小咲のことをよく知らない。話し振りから、晴彦より年下ということはなさそうだが、秘密主義の彼女は、正確な年齢さえ教えてくれない。

 小咲は確かに幼く見える。出会ったばかりの頃は、自分より年下だと思っていたくらいだ。だとしても、隠したくなるほどに歳を重ねているとは思えないものを、小咲はいつも「長生きしすぎて忘れちゃった」とはぐらかす。


 通っていた学校も違うから、共通の友人は少ない。小咲以外の人間から情報を仕入れるのは無理だった。

 そして何より不思議なことが、もう一つ。


「なんで小咲は、いつも春しかここにいないんだ?」

 どちらも、何度となく口にした疑問だ。これを聞くと、小咲はいつも眉をハの字に歪めて笑うのだ。その表情を見たくなくて、晴彦はいつしかこの質問を避けるようになっていた。久しぶりに聞いてみる気になったのは、単なる気まぐれにすぎない。


 晴彦の進路の話になったから、小咲も自然な流れで、つるりと口を滑らせるかもしれない。そう思ったことは秘密だ。

 しかし小咲はいつもと同じ、困ったような笑みを浮かべるばかりである。答えを得られなかった晴彦の問いかけは、少しの間だけ、晴彦と小咲の間をうろうろとしていたが、やがて柔らかな春風に吹かれて散っていった。


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