こわれゆく世界 1
不満というものを持たない人間はいないと思う。
他人からみたら順風満帆な人生だって、本人はもっと違う道があったんじゃないかと漠然と考えることがある。
べつに珍しい心理じゃない。
だからといって、
「こういうの、本気で求めてたわけじゃないんだけど……」
何もない空間を見つめ、私は呟いた。
荒涼とした、という形容詞もつかない。本当になんにもない場所だ。
何かにたとえるなら宇宙の深淵、という感じなのだろうが、実際にそんなものを見た経験はないので、正しいかどうかは判らない。
判っているのは、少なくともここが恋人と待ち合わせをしていた札幌駅南口コンコースではない、ということだけだ。
「あまり取り乱していないようだね」
男か女かも判別がつかない声が聞こえる。
しかし姿は見えない。
「……そうでもありません。いろいろ限界ですよ」
肩をすくめてみせる。
上下の感覚すら不明瞭な空間である。
私が平静を保っているように見えるとしたら、多くの異世界転移ものの作品で語られてきたことを、追体験として受け入れているからに過ぎない。
「私は死んだのでしょうか?」
トラックにはねられた記憶とか、まったくないのだが。
「風間エイジくん。君は死んでなどいない。どうしてそういう解釈になったのか、むしろ問いたいほどだよ」
声が私の名を告げる。
個人情報を知られている、ということに恐怖は感じなかった。
むしろ、そういう次元はとっくに通過している。
「状況の説明をおこなおう」
言葉とともに、何者かが姿を現した。
女性である。
妙齢の。
「……女神さま、ですかね?」
「なるほど。君にはそう見えるわけか」
「というと?」
「この姿は、君の心象をかたどっているにすぎない。簡単にいうと、このような局面で説明役を務めるのは女神またはそれに類するものであろう、と、君が思っているから、そう見えるというだけだね」
「ははあ……そういうものですか……」
曖昧に頷く。
正直、この女性が言っていることのすべてを、私は理解したわけではない。
もちろん納得したわけでもない。
とはいえ、ここで話の腰を折っては、いつまでも先に進まないのだ。
異論も反論も、相手の言い分を聴いてから。
「君にやってもらいたいことがある」
じっと女性が私を見つめる。
なかなかに美しい顔立ちだし、情感たっぷりの表情だ。
妄想がカタチになったものだというなら、どうにも私は面食いということになってしまう。
恋人とまったく似ていないという点について、心の中で謝罪しておく。
「別の次元、君たちから見れば異世界ということになろうか。そこを救ってほしい」
「……予想していなかったわけではありませんが、いざ実際に聞いてみると、陳腐きわまりないですね」
思わず苦笑する。
選ばれし勇者が世界を救う。
多くのファンタジー作品で描かれてきたテーマだ。
しかし、それはフィクションだから許されることである。
たった一人の勇者に救われる世界。どんだけ安いんだって話だろう。
私だって、伊達や酔狂で三十一歳まで生きてきたわけではない。その程度の理屈は判る。
人間一人にできることなどたかが知れているし、仮に最善を尽くしたところで、完璧からはほど遠い。
「事態が陳腐きわまりないからね。説明もまた陳腐になってしまう」
女性もまた苦笑いを浮かべた。
「ふむ?」
「救うというのは語弊があるかもしれない。実際におこなうのは修理だよ」
「修理ですか?」
「ああ。君の同胞によって壊されかけている世界の修理」
表情を変えないまま女性が説明する。
その世界には幾人かの日本人が赴いたという。
そして様々な知識を伝え、様々な変革をもたらした。
「現代知識無双や俺つえーですね。それが悪いとは思ったことはないのですが」
「本来、べつに悪くも何ともない。幾度でも例のあることだしね」
「そうなのですか?」
「君たちの世界も同様だよ。種々の介入があり、影響があり、今のカタチになった」
それは、たとえば先進国が発展途上国に対しておこなう政府開発援助のようなもの。
先達の文明を持つ世界が、後発の世界に知識や技術を供与する。
そうやって連綿と宇宙の歴史は紡がれてきたのだという。
いわれてみれば、地球の技術革新だって停滞したり急加速したりしている。
古代ギリシャ文明の時代に、この惑星が球形だと唱えられていた、などという説もあるくらいだ。
外洋を航行する術すらない時代に、である。
ふうと息を吐く。
すこしばかり話が壮大すぎて、理解が追いついてこない。
「つまり、要約すると、私は他の日本人が送り込まれた世界に行き、彼らがしでかしたことを収拾する、ということでしょうか」
「大筋において間違った解釈ではないね」
「なぜ、私なのでしょうか?」
これは誰しもが持つ疑問だろう。
今度こそはっきりと美女が笑った。
「とくに深い意味はないよ」
「んな理不尽な……」
「強いて理由を挙げるとすれば、これまで送られたタイプとは点対称になるような人間を選んでみた、というところかな」
「それは……」
私は知っている。
昨今、世に氾濫する異世界転移や異世界転生を取り扱った作品、その多くにおいて、主人公は不遇である。
引きこもっていたり、いじめを受けていたり、育児放棄や家庭内暴力に晒されていたり。
たぶん、私のような平々凡々たる人生行路を歩んできた人間は存在しない。
ごく普通の家庭に生まれ、特筆すべき点もないような幼少期を送り、ありふれた高校から三流の私立大学へと進学し、卒業後、とくに疑問もなく地方公務員となって区役所に奉職する。
二十代のうちに主事から主任へと昇進したのは、べつに早い出世でもなければ、遅いわけでもなく、普通だ。
恋人もいる。
四歳年下の二十七歳で、つきあい始めて三年。互いの両親への紹介も済んでおり、来年に挙式の予定である。
「よほどのことがない限り倒産もなければ解雇されることもない職場、休日も暦通りにあり、余暇を楽しむ余裕もある。そして将来を誓った婚約者とは仲睦まじく、互いの趣味を尊重しあえる。まさにリア充というやつだね。うらやましいかぎりだよ」
異世界に思いを馳せる必要などない。
現状で、おおむね満足を得られている。
「つまらない人生ですよ。波乱もなければ冒険もない」
「その台詞は、多くの者たちを敵に回すだろう」
「でしょうね。日々の暮らしに窮している人がいることも、将来に夢も希望も抱けない人がいることも知っています」
美女の苦笑に、私も苦笑を返す。
自ら望んだ道だ。
生まれ落ちる場所や性別を選ぶことはできないが、進学先や就職先を選ぶことはできる。
私は、私の意志によって凡愚の道を歩んでいる。
「すなわち、これまで送られた人物像とは点対称だ。ゆえに君を選んだ」
平凡な人間に訪れる転機。
「……拒否することは可能ですか?」
「可能だ。だが、君は拒否したいのかな?」
「…………」
お見通しというわけだ。
たしかにこの空間にきたときから、私はわくわくしている。
心が騒ぎ出している。
何かが始まる。そんな予感だ。
しかし、私は踏み出すことができない。
今の生活から。
両親も恋人も、友人たちも、私にとって愛すべきしがらみだ。
捨てるわけにはいかない。
「君が向こうで死んだら、いまこの時間に戻そう」
ためらう私に、美女が条件をつける。
「死んだら?」
「病死、戦死、老衰死。種類は問わない。とにかく時間は君の一生分だよ。その期間でベストを尽くしてくれれば良い」
「ベストって……結果は?」
「それも問わない。最善を尽くしても駄目なときは駄目だから。大切なのは結果ではなく手を尽くしたか否か、という点。君になら判るだろう?」
無茶苦茶である。
しかも、私になら判るときた。
「それは、官僚的な意味ですかね」
「そのとおり」
「最悪ですね」
役人の世界では、結果というのはさほど重要視されない。
努力をせずに成果をあげるより、努力はしたが成果があがらなかったという方が尊ばれる。
五分間で素晴らしい成績を残すより、定時いっぱいまで頑張って、でも成績を残せない方が良しとされるのだ。
「私たちの業界でも大きな違いはない。現地神より、ここから引っ張った人間たちがひどいとクレームがきた。ゆえに、それらとは違う個性を持ったものを派遣する、という運びになったのだよ」
私が良い結果を残せれば、それはそれで良し。
残せなければ、この世界の人間は駄目だと思われるだけ。
今後、引っ張られる人間もいなくなる。
それだけの話だ。
「なんか、ずいぶんと事態を投げているように思えますが……」
「私はね。風間エイジくん。世界渡りという制度があまり好きではないのだよ。栄えるにしても滅びるにしても、その世界に住まう者たちの責任において為されるべきだと考えている」
「なるほど……」
「では問おう。風間エイジくん。応か否か」