金魚の鉢
とある駅から七分ほど歩いた場所に、『裏野ハイツ』という古びたアパートがある。
木造で、しかも築三十年が経過しているため、建物のあちらこちらにガタがきている。建て替えられるのも時間の問題だと近所では囁かれていたが、月五万円以下の低家賃と、最寄り駅とコンビニがあるという絶好のロケーションのため、かつては現在六部屋中、五部屋が利用中となかなかの人気であるハイツだ。
そしてこの春からかつて空室だった二〇三号室に、新たな男性が入る事となった。
住人の名前は城ヶ崎竜太。このハイツの付近にある学校に通うため、住む事となった大学生である。
彼の高校生時代は中々のワルだったらしく、友人たちと近所をバイクで乗り回していた。更に補導歴もあるため、竜太の名前はこの町の住人達にも知れ渡る事となる。
ハイツの住人達は皆、彼の名を知っているため、竜太には関わらないように努力をした。
大学生になっても金髪のままの竜太は、他の住人と目が合っても挨拶をしないどころか、己の持つ威圧感ですれ違った住人を睨む。
二〇一号室に住む老婆と一〇一号室に住むサラリーマンからは煙たがり、一〇三号室に母親と暮らす三歳くらいの男の子に至っては竜太に睨まれた瞬間泣き出してしまった。
ハイツの中では孤立する竜太だったが、彼の中ではこれくらいが居心地がいいくらいだった。
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竜太が裏野ハイツにやって来て、四ヶ月が経とうとしていた頃、近所で祭りがやっていたので友人を誘って行く事にした。
待ち合わせ場所まで自慢のオートバイを走らせる竜太。豪快で騒がしいエンジン音は、ある者を振り向かさせ、ある者を不快にさせ、またある者に憧れの意を抱かせた。
友人達と落ち合った竜太は、そのままオートバイに乗って祭りの会場へ。流石に会場ではバイクには乗れないので、バイクから降りて徒歩で祭りを散策する事に。
「おーっ! 金魚すくいじゃん!」
熱気が滞る中、竜太は真夏の風物詩である金魚すくいの屋台が目に留まる。
「えーッ、竜太ってお前金魚すくいなんて出来んのか?」
「へへ……まぁ見てろって」
竜太が百円を店主に渡すと、店主は嫌そうな顔をしてモナカ付きのすくい捕り網五本とビニール袋を渡してくれた。
竜太達の悪行は、ここまで伝わっているようだ。
「行くぜ?」
舌をペロッと出して唇を舐めた竜太は、次の瞬間、網を使って水ごとすくい上げ、勢いよくビニール袋の中に入れる。網のモナカが破れたらすぐにそれを投げ捨て、新しい網に持ち替える。
豪快に水しぶきが立ち、隣にいる親子連れが悲鳴を上げた。
「おい、もっと静かに扱え!」
しかし竜太は店主の忠告に聞く耳を持たず、ひたすら金魚を袋の中に入れ、網がダメになったら取り替えるという動作を繰り返す。
しかしこの時竜太はすくうのに夢中で、赤い金魚が一匹、金魚すくいの台の下に落ちたのを見ていなかった。竜太が勢いよく跳ね上げた水と共に落ちたので、当然店主も竜太の友人もこの事に気づかない。
五つの網がオシャカになり、竜太はビニール袋の口を輪ゴムで閉じてもらう。大量の水の入ったビニール袋の中には、大小様々な金魚が二十匹ほど遊泳していた。
「スゲェ! 金魚メッチャ入ってんじゃん!」
「ヘヘーンッと!」
自分でも予想外の収穫だったらしく、竜太は友人に金魚入りの袋を見せびらかす。
店主にあしらわれるように金魚すくいの店を後にした竜太と友人は、時間いっぱいまで祭りの屋台を楽しんだ。
金魚すくいの台の下で、一匹の金魚が死んだ事なんて誰も分からない……
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祭りを満喫した後友人と別れた竜太は、自らの住居である裏野ハイツへとバイクで舞い戻る。
自室に入った竜太は金魚の入ったビニール袋をベッドの横の棚の上に置く。
はしゃぎまくってクタクタの竜太は、シャワーを浴びて今日は寝る事にする。金魚鉢とエサは明日にでも買って来よう……
年季の入った古びた浴室で自分の体を洗い流した竜太は、部屋着に着替えてベッドに横たわる。そのまま意識が遠ざかり、目蓋を閉じて眠りについた……
どれくらい時間が経ったのか分からないが、あまりの不思議な感覚に竜太は目を覚ます。真夏の蒸し暑い洋室にいたはずなのに、自身の体が浮遊している事に竜太は違和感を覚える。
「何だコレ……息ができねぇ……」
部屋の中の空気を吸い込もうとした竜太は、自身の呼吸が機能しない事に気づく。そしてしばらくして、自分が水の中にいる事に初めて気がついた。
「!?」
呼吸のできない竜太は両手を口に添えながら辺りを見回すと、信じられない光景が目の前に広がる。竜太の洋室は水没しており、床から天井にかけて水に浸かっていた。
もがきながら空気のある場所を探そうと、リビングへの扉を開ける。リビングも浸水しており、息のできる場所はありそうにない。
むせながら洋室の窓を開けようとする竜太。しかし窓は鍵がかかったように固定されており、何をしても開かなかった。窓ガラスは殴ろうが蹴ろうがびくともしない。
生命の危機を感じた竜太は、なんとか玄関まで泳いで頑丈な扉に手をかける。しかしこれも窓と同様、開くことはなく、封印でも施されたかのように閉ざされてしまっていた。
「誰か……誰か助けてくれ……!」
玄関の扉を力強く叩きながら、竜太は助けを求める。しかし扉の向こうで誰かが反応してくれる気配はなく、扉を叩く音が水中に虚しく響き、竜太の手に痛みが走る。酸素の回らなくなった竜太の体はどんどん重くなっていき、意識はどんどん遠のいていく……
その時竜太の目の前に、金魚の群れがこちらにやって来るのが見えた。赤と黒の綺麗なコントラストを描くその群れはどう見ても、竜太が祭りで収穫した金魚達だった。
竜太が水の中でもがいていると、彼の耳に水を伝わりながら声が聞こえてきた。
「この部屋はな、おれ達の金魚鉢になったんだよ」
「泳ぎやすいったらありゃしないぜ」
「気持ちいいよな~」
遊泳している金魚の群れをよく目を凝らして見てみると、一匹一匹が互いに口を開閉させているように見える。
それはまるで、金魚同士が話しているようにしか見えない……
水中で息ができず、体を巡る血液が止まりかけてきたとき、竜太の耳に金魚達の会話のような声が聞こえてくる。
「苦しいか……苦しいよなぁ」
「お前、なんでこんな事になったか分かるか? え?」
「思い当たる節はあるだろ~?」
「無いなんて言わせねーよー!」
「だってよ、お前はおれ達の仲間を――」
金魚の群れは口々に言葉を発した後、溺死しかけている竜太の方を向き、一斉に言葉を放出する。
「カラカラのミイラになるまで見殺しにしたからなーーーーーーーーーーーーーっ!」
復讐心をむき出しにした金魚の悲鳴を聞いた後、酸欠になった竜太は、とうとう事切れてしまった……
●
洋室の窓に差し込む朝日を受けて、竜太は目を覚ます。
さっきまで見ていた恐ろしい光景を頭のなかに思い浮かべると、無意識のうちに部屋の中の空気を肺に取り入れる。ここで竜太は空気を吸い込むと同時に、今の自分が呼吸できるという事に気づく。
「はっ……夢かよ……」
見ていた光景が現実ではなかった事に、安堵の息をつく竜太。自分が寝ていた布団も寝汗でグッショリ――と思ったが、布団は汗で濡れていたのではなかった。敷き布団全面にたっぷりと染み込んでいるもの……これは紛れもない水であった。
「えっ?」
気味が悪くなった竜太は、ベッドから降りる。降りた瞬間、フローリングも水を含んでおり、竜太の足の裏を濡らす。
「ど……どうなってんだ!」
洋室を見渡した竜太は、思わず息を飲んだ。
部屋の中にあるあらゆるものが、水でビショビショに濡れていたのだ。
壁も、天井も、照明も、クローゼットも、全てがまるで室内が水没でもしたかのように、水をかぶっていたのだった。壁からむき出しになっている木製の柱は水を大量に含んでしまい、黒く変色をしている。
そして恐る恐る、竜太は棚の上に置かれたビニール袋に視線を移す。その瞬間、昨日の祭りで金魚を粗末に扱った事を、コレまでの人生の中で最も後悔をする……
ビニール袋は何かが食いちぎったかのようにビリビリに破られていたのだった。そしてその袋の中には何もいない。
ビショビショに濡れた部屋とビリビリに破かれたビニール袋――夢の中の光景は現実であった事を、竜太は身を裂かれるほどに思い知ったのだった……
朝日が照らす裏野ハイツに、一人の青年の悲鳴が響き渡る。
後日竜太のもとに、ずぶ濡れになった部屋に対する多額の修繕費が請求されたのは、言うまでもない。