Forgiving 7 - After the Rain
The rain falls gently by then.
キスから離れると、あかねは淡い溜息を漏らした。
夢から覚めたばかりのように、瞼をうっすらと開いて、焦点のはっきりしない視線でケネスの輪郭を追う。彼の視線もまた、あかねの存在を確かめるように離れなかった。ぽたぽたと二人の間に滴る雨水。濡れた服から伝わる体温。混ざり合う息。
「…………」
言葉は、なかった。
あるいは何か言おうとしたけれど、声にならなかった、というべきかもしれない。ただ今は、こうして彼の体温を、香りを、感じられることが愛しくて。ケネスが自分を愛おしそうな瞳で見てくれることが、くすぐったくて、嬉しい。それがあかねの心の中だった。他は何も目に入らない。恋に落ちた瞬間の、愛を受け入れた瞬間の、盲目。
ゆっくりとあかねの背に回されたケネスの腕に合わせて、あかねも、彼の大きな背へ手を這わせた。
弱くなりつつも振り続ける雨を背景に、この夜が永遠に続けばいいと──叶うはずのない夢を、願う。
結局、その夜の雨は一晩中続いた。
降りが弱くなった頃合を見はかって、二人はまた走り出すと通りでタクシーを拾い、ケネスの滞在しているホテルへと向かった。
──どうしてこんな風に思うのだろう。
ケネスはあかねの寝顔を見ながら、強く唇を結んだ。そして思う──二十五年前のあの夜、『彼』は何を思ったのだろうか、と。
待ったはずだ、この日を。願ったはずだ、こうなるのを。
同じでなくてはならないはずだった。あの男が思ったのと同じことを思えばいい。そうでなくては復讐にならない。違うか?
彼女を手に入れたことで満足し、冷酷に彼女を見下し、使い捨てる。
二十五年前、あかねの父がケネスの母にしたのと同じこと。
──そうだ、待ったはずだ、この日を。こうなるのを。
ケネスの瞳に映るあかねの寝顔は無邪気だった。寝顔だけではない、出逢った時から今までずっと、あかねは素直でいて飾らない、そして柔らかく優しい女性だった。それは事実だ。しかしそれが何だというのだろう? ケネスの母だって同じように優しい女性だったのだ。少なくとも、一条に裏切られ捨てられた、あの日までは。
ひっそりと、ケネスはあかねをベッドに残し、ベランダへ出た。
目の前に広がる光の洪水。東京の夜。雨だというのに休まることを知らない騒がしい街。
──こんなはずではなかった。
これで満足するはずだったのだ。そうだろう? この復讐を果たせば、過去も、苦しい思い出も、いつも胸に圧し掛かっていた重みも、すべて消えて無くなる。今やっとそれが果たされるのだ。
バルコニーの鉄枠を強く掴むと、雨水と鉄の冷たさが手に食い込んでくる。しかしケネスの胸の中は熱かった。
──幸せを感じるはずだった。
この復讐を果たす事で、過去を清算し、それに縛られない明日が始まる。
そう思ってここまで来たのだ。それが……。
──息がし辛い。胸に、針が突き刺さったような痛みがする。
代わりに得られたものは、そんな苦しみばかりだった。満足は微塵も感じない。ただ身体が震えるような後悔と、全てを消し去りたい欲求だけが自分を支配している。
もしこのまま何も無かったことにすれば、楽になるのだろうか。そんな事を考えると、本当に一瞬だけ気分が開放される。そうだ、このまま、あかねにはなにも告げず、一度始めた求婚のお遊戯を延々と続けていればいい……。
しかし次の瞬間には、幼い頃から聞き続けた母の悲鳴が脳裏に響いて、こだまする。決まって夜中だった。特に今のような雨の夜。
『ケン、助けて頂戴』
『私の何がいけなかったの? ねえケン、教えて。私を助けて』
──『何がいけなかったの?』
それこそ、自分達の何がいけなかったというのだろう。
すべてはあかねの父、一条正敏の所業だ。あかねに、ましてやケネス自身に、罪は何も無かったはずだ。しかし自分は罰を受けた。
ケネスは目頭に熱いものが込み上げてくるのを止められなかった。止めるつもりも、なかった。自分は苦しんだのだ。そうだ、彼女も苦しめばいい。いや違う。そうだ、違う、そうだ……。
その夜の雨と同じく、葛藤は一晩中続いた。
違うのは、朝に雨は止んだが、ケネスの心中は晴れないままだったことだ。
しかし答えは出ていた。ケネスが何を思おうとも、母の涙の残像だけは、どうしても振り切れない──それが答えだった。
「あかねちゃん、ちょっと時間をいいかな。大事な話だ」
次の朝、三島がいつになく緊迫した表情で社長室に現れたとき、あかねは対照的にまだ夢の中にいるような気分だった。三島自身がこうして訪れてくるのも珍しい。普段なら秘書の鈴木を通して、用件のみで済ます方が多いからだ。あかねは慌てて顔を上げて、三島に席を勧めた。
「は、はい。座ってください、三島さん」
「そうさせて貰うよ。失礼」
三島は社長机の前の椅子に腰を下ろすと、あかねを真剣な表情で見据えた。あかねもつられて姿勢を伸ばす。ケネスと身体を重ねた出来事は昨日の今日で──いまだに締まらない顔をしていた自覚があったから、あかねは羞恥で頬を染めた。
三島の真剣な瞳にすぐ状況の変化を感じ取れなかったのは、幸せに浮き足だっていたせいだ。
あかねは昨夜、ケネスの求愛を受け入れた。そう、ついに二人は恋人同士と呼んでいい間柄になったのだ。ケネスが事前にプロポーズをしている事を考えると、まだそこまでは正式に受け入れていないにせよ、もっと深い関係だといってもいいくらいだ。こんな朝、幸せな気分にならない女性などこの世にそう居ないだろう。もちろんあかねも例外ではなかった。
「ケネス君と何かあったのかい?」
それが三島の唐突な質問だった。もしこの質問が秘書の鈴木からだったら、何か色っぽいことを勘ぐってからかわれているだけだと思っただろう。しかし三島はそういうタイプではない。あかねは首を捻った。
「いえ、あの、特には……どうしたんですか?」
それは嘘だ。小さな嘘。しかしあかねには一々全ての事情を三島に説明する必要はないように思えた。彼は勘がいい。言葉で説明しなくても少し匂わせば、大体のことは理解してくれるのが常だった。
しかしあかねの予想とは裏腹に、三島は真剣な表情を崩さなかった。
そして、慎重な感じで話し始める。
「ケネス君の融資のお陰で、うちも大分軌道に乗りかけている。まだ二ヶ月目だが、ある程度利益も出るようになったし、決算への目処も立ってきた。ビジネスとして見放される理由は無いように思えるんだが……」
「……三島さん?」
「逆に、今ここで彼に見放されると私達には致命的だ。逆戻りどころか、もっと酷くなる怖れがある」
三島の言葉に、あかねは夢から覚めるような感覚に襲われる。
まだ具体的な説明は無いが、何か深刻な事情が──何かとても悪い事が、起こったのが明らかだったからだ。しかしあかねが口を開こうとする前に、三島は身を乗り出して告白した。
「今朝、突然ケネス君から会社に連絡があったんだ。融資を打ち切ると。かなり一方的な感じだったらしい。彼が関わっていたうちとのプロジェクトも今直ぐ破棄にする、と──」
「な……っ」
あかねは息を呑んだ。三島の言葉を、理解しきれずに。
「そんな、筈は……昨夜も何も言われなかったですし、何も……」
しかし三島の顔を見れば、彼が冗談を言っている訳でないのはすぐに分かる。ケネスが突然融資を切った? あり得ない、そんな馬鹿な。昨夜ケネスとあかねは共に過ごした。それは幸せで甘い時間を、共に。朝方あかねが目を覚ますとケネスはすでにどこかへ出た後だったが、枕元に小さなメモが残されていて、そこには『先に仕事に出てくる。昨夜は素晴らしかった』と書かれていて、最期に彼の名前が記してあった。
「きっと何かの間違えです。今直ぐ彼に連絡しますから、待っていて下さい」
あかねはそう言って、素早く手元の電話器に手を伸ばした。ケネスの番号ならすでに暗記してある。この二ヶ月、彼はどんなに短くても毎日連絡をよこして来たし、あかねも、食事を奢られた次の日の朝には必ず礼の電話を掛けていた。
しかし
「無駄だよ」
三島は低く、同情のこもった声で言った。
「どうして……」
「彼はイギリスに帰るそうだ。今頃すでに空港だろう。もしかしたら機上かもしれない」
「そんな!」
「事実なんだ。確認もしてある、彼はこの朝の便を予約してあった」
「…………」
呆然とするあかねを前にして、三島はますます同情の色を濃くした。しかしその同情の影には、疑いに似た疑問も影を落としている。
三島はゆっくりと言葉を続けた。
「本当かどうかは分からない。君を傷つけるような事は言いたくないが──彼はこう言い残したんだ。君に失望した、と。だから融資もプロジェクトも切るのだ、と……私はまさか、君達が急に喧嘩でもしたのではないかと思ったのだが……」
三島の眉間には苦渋の皺のようなものがくっきりと刻まれている。言いたくない台詞を言わなければいけない者の、正直な印だ。
あかねの驚きを隠せなかった。突然世界が真っ白になってしまったような感覚がして、どこからともなく酷い耳鳴りが襲ってくる。
(失望?)
彼は何と言った? あかねに失望──?
あかねが何も答えられないでいると、三島は疲れた溜息を吐いて、席を立った。
「私は仕事に戻るよ。会社は大混乱だ──帯を締めて掛からなければ、潰れてしまう」
「…………」
それでもあかねは答えられなかった。
部屋を出て行く三島の背を無言で眺める。長身なはずの彼の背中を、小さい、と思ってしまった。それは疲れと失望からだったのだろう。そしてその事実が……その失望を与えてしまったのが自分だという事実が、あかねの胸をこれ以上ないほどに傷つけた。
大海洋にたった一人、置き去りにされた気分だった。
陸も、人も、船も、すがれる物は何もなく。そのまま次の波に飲み込まれて、深く沈んでいってしまう。
しかしそれでも、胸に去来するのは、愛しい人の姿ばかり──。
空港までの道、ケネスは一言も発しないでいた。
ただ岩のように心を硬くして、余計な感情が自分を支配するのを食い止め続けていた。何かを言葉にしたら、すぐに後悔が溢れてきてしまいそうな気がした。
タクシーが空港のゲートに着くと、ケネスは外に出て空を見上げた。
涼しい風が、静かに頬を撫でる。
運転手がケネスの荷物をトランクから降ろし始めている。その場にはせわしい空港の雑音が溢れていた──しかし、ケネスの耳にそれは届かなかった。