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Forgiving  作者: 泉野ジュール
本編
6/13

Forgiving 6 - Kiss



I must forget this pointless grief. I. Just. Must.



「あかねちゃん、なんだか綺麗になったんじゃない?」

 悪戯っぽい、何かを言葉の裏に含んだような口調で、秘書の鈴木はあかねの机に書類を置きながらそう言った。あかねは机から顔を上げて、「え」 と、少し呆けた声を漏らす。鈴木はそれを見てますます可笑しそうに口の端を上げた。

「ケネス氏とは上手く行ってる訳ね? あれからもう二ヶ月かしら?」

「鈴木さんってば、もう、わたし達まだそういうのじゃないですから……」

「『わたし達』、『まだ』。うーん、聞き捨てならない感じだわ!」

「す、鈴木さんっ」

 慌てながら桃色に頬を染めていくあかねに、鈴木は満足そうな笑顔を見せて部屋から出て行った。一人その場に残されたあかねは、朝から突然の嵐に襲われたような気分で、しばらく鈴木が出て行った扉の内側をぼぉっと眺めていた。そして、気が付くと頭の中では、ケネスと共に過ごしたこの二ヵ月の記憶がぐるぐると踊っているのだ。確かにケネスとあかねはまだ、二ヵ月経った今でも、俗に言うステディーな関係ではなかった──しかし、恋人や親友同士がするような親しい話もするようになったし、別れ際にはまた当然のように、次に会う約束をどちらからともなくする。

 あとはもう時間の問題だと……言っていえなくはなかった。

(好き、なのかな)

(うん……好き)

 あかねの心は、明らかにケネスに揺れている。

 優しくて紳士的で、知的なのに飾らない。断る理由を──好きになれない理由を、考える方が難しい。ケネスはそんな男だった。少なくともあかねに対してはそうだ。

 しかし、あかねの心を本当に捕らえているのは、ケネスの口から紡がれるお世辞や甘い愛の言葉の類ではなく、彼が時々見せる、憂いを含んだ少し切ない笑顔だった。時折見られるその表情が、なぜかあかねの胸に苦しいほど響く。普段、ケネスが見せる穏やかな表情や笑顔は、彼の紳士的な態度から来る儀礼っぽいもののような気がするのだ。しかし、あかねを見つめている時に時折、ふと見せる寂しげな笑顔が、どうしようもなくあかねの心をとらえて放さなかった。

 それは……恋と、呼んでいいのだろう。

 そう思っている。

 ただ、その想いを受け入れようと考える時どうしても、理由の分からない胸騒ぎがして、あかねを不安にさせた。

 なぜだろう、どうして。

 不安になる理由などないはずなのに。それほど、順調で確かで、夢のような恋なのに……



 その夜──。

「雨になりそうだな。急ごうか」

 そんなケネスの声に、あかねはハッと我に返って空を見上げた。

 もうとっくに暮れた宵の口、仕事帰りに待ち合わせをしていた二人だったが──怪しげに曇る空模様に、ケネスは挨拶もそこそこにあかねの手を引いた。

 二人が待ち合わせをしていた公園は大きく空が開けていて、晴れている日こそ気持ちがいいものの、ひとたび雨に降られると避ける場所がない造りになっている。今夜の天気は崩れやすいと予報にあったし、湿気っぽくなってきたのが肌にも感じられた。

「そうですね、傘、忘れちゃったし」

 あかねが素直にそう答えてケネスに歩調を合わせると、彼は彼女を振り返って、微笑んだ。あの、少し切ない、あかねをときめかせる微笑だ。

「あなたは本当に純粋だ。時々罪悪感を感じてしまう」

「え?」

「いや、何でもない。走っても大丈夫かな、その靴は」

「あ、は、はい……」

 そうあかねが答えると、ケネスは視線をそらして前を見すえた。そして、あかねの手を引いて、針葉樹が両端に並ぶ公園の遊歩道を早足で駆け抜ける。

 ──何度か、手を触れ合ったことくらいはあった。

 しかし、こうしてしっかり手と手を握り合ったのは初めてだ。ケネスの手は痛いくらいにしっかりとあかねの手を握っていて、肌と肌が触れ合うそこから、胸の奥を締め付けるような妙な熱さが流れ込んでくる。久しぶりに走り始めたせいもあり、あかねの息はすぐに上がった。はぁ、はぁ……と荒い呼吸を繰り返し始めたと同時に、ポツリと冷たい水滴が腕に当たったの感じて、空を見上げる。すると、今度はそれが頬にも数滴落ちてきた。

 雨だ──。

 そう考える間もないままに、遠くの空に閃光が走った。

 稲妻と共に雷鳴が響き渡る。

 空気をつんざくような音があたりに轟いた。

「きゃあ!」

 あかねが短い悲鳴を上げて身体を縮めると、ケネスが振り返る。そして彼は何かを言おうと口を開きかけた──その時だ。もう一度、しかしもっと早く近く、雷鳴が響いた。小雨に思えた雨が強く襲いかかるように降り始める。夜の雨に濡れた公園の歩道が、電灯の灯りを反射してキラキラと光り、あっという間にいくつもの水たまりを作っていく。

「失礼」

 と、短く断って、ケネスはあかねを抱き寄せると、自らのスーツの中にあかねをすっぽりと包み込んだ。

 嗅いだことのない香りと、感じたことのない鼓動が急に、シャツ一枚を通しただけの距離に突きつけられる。あかねは動揺して一瞬我を失いかけた。つい、ケネスの胸元から逃げようともがいたのだ。けれど、それは彼の腕には通用しない。あかねの抵抗など感じもしないという風に、強く抱きとめて放さなかった。

「あ……」

 それはまるで、今のあかねの心を象徴するようでもあった。

 突然。

 救われて、捕まえられて。最初は戸惑ったのに、気が付くと離れられなくなっているのは、自分の方で──。

 耳をすますと、トクン、トクンという鼓動が耳に響く。

 それが自分のものなのか、彼のものなのかは、もう、よく分からない。

 けれど、二人の鼓動が溶け合っているというその事実が、なぜか心地良い。心地良くて、でも同時に、ひどく緊張する。ケネスの大人っぽい香りを鼻腔びこうに感じながら、あかねはしばらく動けなかった。動こうとするとケネスの腕に力が加わるせいもあったけれど、本当は、この人の胸から離れたくなかったからだ──だから動けなかった。

 そんなうっすらとした自覚があかねにはあった。


「アカネ?」

 ケネスの低い声が頭上に響いた。

「大丈夫ですか? 向こうではこういう雨はすぐ止むんだが──日本のは違うでしょう。とりあえずどこか避けられる場所を探そう」

 そう言って歩き出そうとしたケネスを、あかねは見上げた。ケネスの真剣な瞳と目が合う。


 雨が降っている。強く、激しく。

 そんなことをぼんやりと、まるで他人事のように遠く感じるくらい、その瞳に引き込まれた。

 ケネスのスーツの影で守られていたあかねの服も、だんだんと雨に濡れて水がしみ込んきているのが感じられる。スーツから顔をちょこんと出して辺りを見渡すと、数十メートル先に小さい屋根のついた休憩所が見えた。ケネスの視線も同じ場所を追っている。

「はい」

 と、あかねが頷くと、ケネスはあかねの頭上に自分のスーツを被せたまま、早足で進み始めた。足元の水が跳ねる音が、妙に響く。二人分の足音。

 休憩所に辿り着くとケネスは短い溜息を漏らして、あかねをスーツの庇護から解放した。

「きちんと庇っていたつもりなんだが、濡らしてしまいましたね。すみません」

「い、いえ。平気……」

 ひたひたと水滴の滴るケネスのスーツを見て、あかねは慌ててカバンからハンカチを取り出した。あかねはわずかに濡れている程度だが、ケネスは髪からスーツまでほとんどずぶ濡れだ。急いで差し出したハンカチだが、しかし、小さい女性用のそれは慰め程度にしかならない。彼の前髪を拭こうとしただけで濡れきってしまって、あかねはそれをぎゅっと絞った。

「無駄ですよ」

 濡れたハンカチを絞ってもう一度拭こうとするあかねを、ケネスは低い笑い声を漏らしながらそう言って止めた。ケネスの手があかねの手首を押さえて、動きを封じる。

「まったく、あなたはやる事が一々可愛らしい」

「で、でも拭かなくちゃ……っ」

「わたしは平気ですよ。通り雨には慣れてるし、男ですから」

「あ……」

 濡れた髪のケネスは、どきりとするくらい色っぽかった。その瞳に据えられて、その腕に捕まえられて、その声で甘く囁かれて──雨で冷えたはずの身体が、勝手にどんどん火照っていく。


「あなたは綿菓子みたいだ。甘くて柔らかい。濡らしたら溶けてしまいそうで怖いな」

 そう囁いて、あかねの手からハンカチを取ると、ケネスはそれであかねの額から髪にかけてを優しく拭いた。

 布を通して伝わる熱に、身体が芯から溶けていってしまいそうな気分になる。

 あかねはケネスを見上げた。

 ケネスの視線はとうにあかねを捕らえていて、放さない。

 視線と視線が合ったとき、まるで目の前で花火が散ったような感覚を覚えた。それはもしかしたら遠い稲妻だったのかもしれない──しかし、続いて、ケネスがまたあの少し切ない笑顔を見せたとき、あかねの中で確かに何かが弾けた。

(わたし……)

 どうしてこの笑顔に惹かれるのだろう。

(わたし、この人が――)

 見つめ合う二人の間で、無言の同意が交わされる。


 外の雨はまだ止む気配はなかった。雨音と、遠くに聞こえる水を弾く車両のタイヤの音、誰かの足音……。そんな雑音を背景に、二人は見つめ合い続けた。

 髪から、服から、とめどなく滴る水滴。冷えた空気と対照的に、熱くなっていく自分。

 ケネスが手にしていたハンカチを離すと、それは濡れた地面に落ちて水を吸っていった。ケネスの両手がそのままあかねの頬を包む。骨ばった大きい手は、あかねの首元からうなじの髪にまで届いて、頭すべてを掴まれているような格好になった。しかし彼の動作はゆっくりで、いとおしむように優しくて滑らかで、苦しくなるほどに心地良い。

 さらに近付き合うと、ケネスの髪から滴る水滴があかねに落ちた。


 ──先に求めたのは、どちらだったのだろう。

 そう思うほど自然なキスだった。最初は柔らかく、触れるだけのキス。次に、少し時間を置いて、もっと情熱的に。

 ケネスの両手はあかねの顔を包んでいて、あかねの手はケネスの胸元に添えられていた──静かな雨の夜。

 二人の心が、最も遠かった夜。



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