Forgiving 5 - Start
I did my best to keep her away from my mind, though it wasn't a great success.
ホテルの部屋へ戻ると、ケネスは乱暴にスーツを脱ぎ捨てた。よくやった──そう、自分を賞賛してやりたい気分だ。あかねに声を掛け、その翌日には彼女の会社へ赴き、夢のような融資話を申し出る。そして求婚、豪華な夕食、2人きりの時間……。
すべては計画した通りだ、ずいぶんと上手く行っている。
それなのに、どういうわけか荒れすさむ気分を抑えつつ、ケネスは真っ直ぐにシャワールームへ向かった。
熱く強いシャワーに打たれることを身体が望んだ理由は──多分に、この動揺に似た妙な感覚を流してしまいたかったからだ。そうだ、洗い流してしまえばいい。ここで情を移すのは余りにも致命的だ──。
長くて熱いシャワーから上がると、ケネスは目の前の鏡に彼自身を映した。
数秒、睨むようにそれを見つめたあと、そのままタオルを腰に巻いただけの格好で部屋へ戻り、ベッドサイドに腰を下ろした。そしてミニ・バーから出したウィスキーを煽った。ごくりと咽を通るそれが、少しばかりケネスの中でせめぎ合う焦りを落ち着かせる。
この復讐の炎を鎮められるものは何もない。
そんな事を胸の中で、おのれに言い聞かせるよう繰り返した。
「あかねちゃん、昨夜はどうなったの? あのイギリス紳士と夕食だったんでしょう!?」
秘書の鈴木は、翌朝早々、社長室へ入ろうとするあかねに挨拶もしないまま、紅潮した顔でそう聞いてきた。あかねはあかねで、そんな鈴木の反応を予想していたから、少し眉を八の字に下げただけで淡々と答えた。
「お食事を奢ってもらって、お話をして、帰りにタクシーを拾って貰いました。まる、です。本当にそれだけですよ」
「本当! 紳士で素敵じゃない。ストイックなのも萌えるわね」
「鈴木さん、萌えるとか言わないで下さい、もう……」
声だけは困ったふうでありながらも、あかねの頬にははにかむ少女のような鮮やかな紅がさしている。鈴木はなにやら喉の奥で唸りながら、そんなあかねの姿を上から下まで舐めるように見つめた。
「……可愛いものね、あかねちゃん。わたしには夢みたいな話だわ。突然、長身美形の英国人実業家が現れて、会社に融資してくれる上にプロポーズだなんて」
「わたしにだって夢みたいな話ですよ、鈴木さん。なんだか実感がなくて」
「ふふ、でも嫌ではなかったみたいね? 少し心配したの、あかねちゃんが融資の為に嫌々彼と付き合うことになったら……って。でもそんな感じじゃなさそうね」
「う、ううん……」
あかねは曖昧に答えた。自分でも答えがよく分からなかったからだ。
「それで、その……理由は聞いた? どうして彼が急にあかねちゃんを見初めたのか」
鈴木の声のトーンが妙に上がった──どうやらこれが一番聞きたい質問だったようだ。あかねは逆に声を落として答えた。
「昔、父と一緒にイギリスへ行った時に、パーティーで会ったらしいんです。会ったっていうか、私は覚えてなくて……向こうが私を見ただけって」
「まぁ!」
と、素っ頓狂な叫びを上げて、すぐに我に返ったのか鈴木は口元に両手を当てて肩をすくめた。感極まった、という感じで首を振りながら、目を輝かせる。
「まるでおとぎ話ね。本当にこんな話があるなんて思わなかったわ」
──おとぎ話。
確かにおとぎ話と呼んでしまうと、しっくりくる。
そのくらい一連の展開はスムーズで、無駄がなくて、夢のようにロマンチックな出来事だった。
(や、やだ……なに考えてるの?)
いよいよケネスが提案した融資を受け入れる書類にサインを記す段階になって、そんな事を考えてしまったあかねは、ギュッとペンを握り直した。ここは会議室の一つで、周りには役員たちが神妙な顔で座っている。そしてその中には、当然だが、ケネスもいて、こちらを見ながら座っていた。
(馬鹿っ! このサインに会社が掛かってるんだから!)
あかねは姿勢を正すと、そのまま勢いに任せて素早くサインをした。
すると同時に、周りからゆっくりとした拍手がおこる。あかねは顔を上げて小さく息を吐いた。部屋を見回すと、皆、平静を保ちながらもその瞳に喜びを浮かばせている。当然だ──これで、彼らの明日は保障されたのだから。そしてケネスを見ると、目が合った。拍手こそしていないものの、口元には柔らかい笑みが浮かんでいた。
その夜はそのまま、宴会と呼ばれる宴へと流れていった。
あかねは最初反対した。この日本独特の行事に、イギリス人のケネスが馴染めるとは思えない。西洋式のパーティーにしようと言ったのだが、それを制したのは意外にもケネス本人だった。
「ニホンの、ブンカ。たのしみです」
と、例のつたない日本語で答えながら。
そんな訳で結局、あかねとケネスを含む主な役員と社員の大所帯が、とある料亭の一間を貸しきる事になった。最初こそ外国人のケネスの手前、紳士を保とうとしていた社員達だが、一杯二杯と酒が回っていくうちに次々正体を失っていく。食事が終わる頃には、明らかに正気といえるのはケネスと三島、そして酒には手を付けなかったあかねくらいという有様だった。
「──なるほど。サケは日本の素晴らしい発明品だ。けれど、日本人には少し強すぎるのかもしれない」
そんな事を、ケネスは神妙な顔付きで言った。
ジョークなのだろうか? あかねがそれに苦笑いすると、三島が腕をめくり時計を確認した。
「あかねちゃん、君はそろそろ帰ったほうがいいかな。よっぱらい達の面倒は私が見ておくから」
「そんな、三島さん。いつも悪いです。わたしももう子供じゃないし」
「いいや、亡き社長の愛娘にそんな事はさせられないよ。慣れてるから気にしなくていい。それに、この融資話はどうやら君のお陰のようだからね」
──少し声を落として、三島は日本語でそう話した。
それはもちろん、傍にいるケネスにも聞こえる程度の声なのだが、こうした早口の口語は完全には聞き取れないようだ。三島は続けた。
「もちろん話がまとまってくれれば嬉しいが、無理はしなくていいんだよ」
「三島さん……」
三島はそれだけ告げると、ケネスとあかねの二人を残して席を立った。あかねはその後姿を眺めた。三島の言いたいことは、なんとなく分かる。彼は有能なのに、同時に優しくて少し苦労人だ。あかねとはまるで叔父と姪のような関係だった。
ふとあかねが顔を上げると、ケネスも同じように三島の後姿を見送っている。あかねの視線に気が付くと、ケネスは彼女に対して微笑んだ。
「いい男だ。彼の様な社員がいるなら、私の融資も無駄にはならないでしょう」
「ええ……三島さんは創設当時からの社員です。ずっと父の右腕だったんですよ」
そう答えると一瞬、なぜか、あかねを見下ろすケネスの瞳が険しくなった。あかねの背筋をぞくりと冷やすような、深いなにかが、彼の瞳に宿っている。
ケネスの厳しい視線に、あかねは一瞬後ずさりそうになった。それに気が付いたのか、彼はすぐに穏やかな表情に戻る。
「自宅まで送りますよ。また少し食後の散歩でもしながら。どうですか?」
「は、はい」
「よかった」
その時のケネスは、すでにいつもの彼に戻っていた。はっきりとしているが穏やかな口調。紳士的な態度と物腰。だから、夜が深まるにつれ、あかねはそのケネスの険しい視線の存在を忘れていった。気のせいだろう、そんなふうに受け流して。
忘れてはいけなかったのに。
料亭は街の中心から少し外れていたので、確かに、道は静かで食後の散歩をするにはちょうどよかった。風は穏やかで、宵口の冷めた空気が心地良い。
あかねは癖で、少しうつむきながら歩く。逆にケネスは長身をさらに高く伸ばし、真っ直ぐ前を見ながら歩いていた。隣り合って歩く二人の姿はさまざまな意味で対照的だったが、どこか似合ってもいる。
「日本にはいつまで滞在される予定ですか?」
「あなたからイエスの返事を貰えるまで。つまり、明日かも知れないし、三年後かも知れないし、永遠にここに居座るかもしれないということです」
ケネスはさらりと答えた。
その時、すれ違った針葉樹が風に揺れるのと一緒に、あかねの心もざわざわと音を立てた。
なんと答えればいいのだろう。外国人女性なら、こういう時の気が利いた答え方を知っているのだろうか。あかねがうつむいたまま顔を上げられないでいると、ケネスはそのまま先を続けた。
「アカネ、融資の話があるからといって、あなたが無理にうなづく必要はありませんよ。すでに言った通り、あれはついでに過ぎない。わたしが欲しいのは無理にあなたを繋ぎとめることでなく、あなたの心そのものだ」
「…………」
あかねは静かに顔を上げた。ケネスの穏やかな視線と目が合う。
(わたしの心、そのもの――)
それは確かに、彼のものになりつつあった。
あかねの隣を歩く、この、出会ったばかりの男性のものに。でも。
「わたし……なんて答えたらいいのか……あの、まだあなたの事を何も知らないし……」
「最初から全てを理解し合っている二人など居ません。実を言うと、わたしももっと、あなたのことが知りたい。どうですか、これから、必ず週に二回は会って食事を共にするというのは?」
急に、くだけた感じで喋り出したケネスに、あかねは瞳を瞬いた。
「週に二回?」
「最低でも。出来ればもっと多い方がいいのでしょうが、お互い仕事がある身だ。あなたはわたしが求愛しているとか、融資しているとか、そういう事は気にしなくていい。ただ一緒に時間を過ごして、お互いを知る。もしこれ以上会いたくなくなればそう言ってくれていい。そうすればわたしも無理強いはしません」
──初めて会った時から、この人はあかねを驚かせる。今も例外ではなかった。少しくだけた感じで喋り出したケネスは、今までの彼より少年っぽく見えて、それもまた、あかねの心をざわつかせた。
ケネスは二、三歩、飛び跳ねるように前へ進み、振り返ると、あかねの目の前に立ち止まった。
「やくそく、します。イイですか?」
あかねの顔を覗きこみ、ケネスは日本語でそう言った。
長身の彼がするその仕草は中々可愛らしくて、あかねはつい、小さく噴き出してしまう。ケネスもまた微笑んだ。
穏やかな夜だった。
静かで、滑らかで、なにもかもが良い方向へ進んでいるように思える。
「はい、つまり……お友達から、ですね?」
「ハイ、オトモダチ、です。Friends」
二人はクスクスと子供のように笑い合って、そして、約束をかわした。
約束通り、その日から週に二、三回、彼らは一緒に時を過ごした。たいていは仕事帰りのディナーで、最初の時のように、共に食事をした後、ケネスがあかねを適当と思える場所まで送る。時々、週末に映画や展示会を見に行くこともあった。
ケネスはなにも強制しなかったし、常に紳士で、優しい。
濃い茶色のようで、時にもっと明るい色にも見える、ケネスの瞳は次第にあかねの心を奪っていった。ふとした瞬間に垣間見られる、憂いを帯びたケネスの表情もまた、あかねにもっとケネスを知りたいと思わせるものだった。
(素敵な人……)
二ヶ月が過ぎた頃、ケネスはあかねの中で、これ以上ないくらいに大きな存在へと変わってきていた。