Forgiving 2 - First Sight
Why, I wonder, our fates were intertwined.
一条あかねは、ビルから出ると深刻な溜息を吐いた。
しかし、都内のビル街の喧騒は、そんなあかねの憂鬱などいちいち構っていられないとでもいうように、その溜息をいとも簡単に飲み込んでいく。このご時勢、自分と同じ思いをしている人間は一人や二人ではないのだろう。天も自分などには構っていられないというところか。
「お父さん……」
呟いてはみたが、もちろん答えはない。
そしてもう、この先一生、彼が自分に答えてくれることはないのだ。
沢山の幸せな思い出と、そして最期に、あかねには抱えきれないほどの大きな借金を残して。あかねの父、一条正敏は先日亡くなっていた。
会社の経営が厳しくなっているのは、世間知らずなあかねにも感じられていた。あまり景気の良い時勢ではないし、父の会社そのものも、一条『グループ』と名乗り一時期はそれなりの資産があったものの、結局は中堅にすぎない。このような中企業には、とても難しいご時勢だ。
加えて、父の病気──あかねは、父が五十歳という年でやっと授かった初めての子供で、あかねが二十二歳になり大学を卒業した去年には、彼はすでに七十二歳。酒を嗜んでいたこともあり、ここ数年、腎臓を患っていた。そして先日、それが原因で急逝した。若くして母も亡くしているあかねは、ついに天涯孤独といわれる身分になった、というわけだ。
(これからどうすればいいの……?)
まるで捨て犬になった気分だった。右も左も分からない。
通夜も葬式もすんだ今日、あかねは、父の会社の役員達に呼び出されていた。そして、会社が抱える借金と負債の額を知らされる。父は一人娘であるあかねに会社を遺した──つまり、資産があればそれはあかねの物だが、逆に借金があっても、それはあかねの物になるということだ。
会社を立て直す必要がある。
それは当然、誰もが望んで止まないことだ。倒産してしまえば、社員は全員明日をも知れぬ身になってしまう。昨今、特に中年以降の社員たちが新しい就職先を探すのは難しい。全員を見知っている訳ではないが、その中の何人かは、父を通してあかねも親しくしていた。いい人達ばかりだ。
彼らを助けたい。しかしどうやって? 答えは簡単ではない。
合併、融資、などといった単語が幾つか浮かぶが、どれも現実的ではなかった。もちろん今、会社を実質的に動かしているのは社員役員達で、あかね本人は、名義的に社長の椅子を預かりながらも、ただオタオタとするしかないのが現状だった。
それでもやはり、最終的な責任はあかねの肩にかかっている──社長令嬢として、ある程度の教育は受けてきた。会社の運営も、知識として必要なことは一通り教わっている。現場も父に付いて少しは見てきた。しかし、あかねはどうにも社長という器ではないのだ。それは性格的なもので、大事にされて育ったせいか、あかねは穏やかで柔らかい控えめな女性だった。それはもちろん人としての美点にはなろうが、これから立て直さなければならない会社の社長として、適任とは言い難い。
(三島さんに譲れたらいいのに……わたしは、社員として頑張るから)
あかねはそんな風に思っていた。
三島は、父が最も頼りにしていた右腕だ。父が亡き後も、同じ様にあかねをもサポートするつもりでいてくれているらしい。
そういう意味では、あかねはいつも恵まれている。何不自由なく育ち、父にとって遅く出来た子だった事もあって、とても大事にされてきた。今も、会社は危機に立ちながらも、役員や社員達はあかねに協力しようとしてくれている。
なんとか出来たら、何か、彼らを救えるチャンスがあれば──。
あかねはそう必死で悩みながら、ビル街を重い足取りで歩いていたところだ。『その』声が聞こえたのは――。
「アカネ……ミス・イチジョー?」
「え?」
遊歩道の両脇をいろどる緑の木々の、その下の木陰で。
あかねは反射的に振り返った。珍しいくらいに低いバリトンの声が、自分を呼んだ気がして──惹かれるように、辺りを見回す。しかしすぐには何も見付からなかった。慌ててきょろきょろしていると、もう一度同じ声が響く。
「ココです。うしろ。Turn your face」
──ゾクッとするような、低くて甘い男性の声だ。
あかねは振り返った。すると、真後ろに『何か』が立ちはだかっている。驚いて一歩後ずさるとやっと、それが何だったのか分かってさらに驚く。あかねが目を見開いて固まっていると、その声の主は続けた。
「シツレイ、します。レディをおどろかせる。ヨクナイ、ですね」
「え、……っと」
あかねは相手を見上げた。本当に見上げなければいけなかったのだ。目の前に立っているのは一人の長身の男性で──喋り方で、彼が日本人でないことだけはすぐに分かったけれど、確かに外国人だ。
彼は、あかねと視線が合うと、口元にうっすらと笑みを浮かべる。
「あの……いったい、どちら様で……」
そう、あかねが訊くと、彼はきょとんとした瞳で軽く首を傾げ、なにを言われたのか分からない、と表現してみせた。ああ、確かに、日本語が母国語ではない人間には理解しずらい表現をしてしまったかもしれない。
あかねは軽く咳払いをすると、再度、尋ねた。
「えっと、その、あなたは誰……ですか」
あかねはそれなりに英語を喋れる。現在のビジネスには不可欠だと、子供の頃からレッスンを受けていたし、学生のころ一年だけカナダに留学したりもしていた。
それでもこういう肝心な時、そう簡単には口をついて出てこなかったりするものだ。
「ダレ……ああ、ワタシが、ダレ、ですね?」
男はあかねの言葉を繰り返した。やっと意味を理解したようで、また口元に笑みが戻る。
あかねは息を呑んだ。昼時とはいえ、突然外国人に後ろを取られて、声を掛けられる。あまり穏やかな場面とは思えない。しかし彼の声は落ち着いていた。
「アナタは、わかります。スグに、ワタシがだれか──きっと、アシタ」
「あ、明日?」
「ソウ、デス」
男はそう肯定すると、じっとあかねを見据えたまま黙って立っていた。
あかねも、何も言えない──これはいったい、何だというのだろう? 突然声を掛けてきたこの男性は、かといって特にあかねに気があるという訳ではなさそうに見えた。街を歩いていて偶然見かけて、好みの外見だったから声を掛けている、という感じではないのだ。ただ、射るような冷静な瞳で、まるで観察するようにあかねを見据えている。
真っ直ぐな視線に怯みそうになりながら、しかし、あかねの方も、彼から目を離せずにいた。
白人だ。白人ではある、が、日本人がよく思い浮かべる、ステレオタイプの金髪青眼ではない。短く揃えられた髪は、黒──しかし日本人の黒とは少し違う、茶色を濃くしたような色だ。瞳はそれをもう少し薄くしたような、曖昧な色彩だった。
彫りの深い顔立ちは、日本人のあかねには非日常を思わせた。
「アシタ……ワタシタチは、あう」
もう一度、男は言った。一語一語を切るように、ゆっくりと。
あかねは答えられずに、ただ立ち尽くしていた。すると彼は、ふいに一歩、あかねに向かって近づいてきた。すっと片手が伸ばされ、それが、あかねの頬に触れる。
「Then you will see」
──完璧な英国英語だ。
それが、たどたどしい日本語の後に続いたことで、余計に際立った。
彼の微笑み方は、たしかに微笑んでいるというのに、それが幸せからだそうしているとは思えないような──そんな、複雑な裏表が、本能的に感じられるものだった。あかねが何かを答えようとすると、男はそれをシーッと諌めるように、頬に当てていた手をあかねの口の前に持ってきて、人差し指を立てた。
それが軽くあかねの唇に触れる。
「アシタ、です」
男はもう一度そう繰り返して、今度は悪戯っぽく微笑むと、そのまま踵を返した。そしてあかねに背を向けて歩き去っていく。
何が起こったのか、あかねには分からなかった。
ただ、彼の後姿を無言で見送りながら、真っ白になった頭でぼうっとたたずむことしかできなかった。今まで頭の中を占めていた会社の事も、未来への不安も、その時だけは綺麗さっぱり消え去っていた。
なんの予告もなく、突然襲ってきた嵐に襲われた直後──そんな気分だった。本当の嵐はこれから襲ってくるのだと、気が付かないまま。