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その後、会議室は各自のレッスンの為に一斉にいなくなった。俺の今日のレッスンは事務所のレコーディングスタジオだ。今日は楓太さん達のレコーディングの見学だ。
「おはようございます」
「おはよう、伊吹。名刺貰ったか?」
「はい、貰いました。名刺入れもありがとうございます」
「俺も、デビュー前に先輩に貰ったんだよ。だから俺も何かしたかっただけ」
「で、俺達はお金を出しただけ……な。折角だから出来上がったばかりの名刺をくれよ」
「そうそう、ちゃんと名刺入れに入れておけな」
ビビットの皆さんが俺に名刺の渡し方の実践講座を買ってくれた。前に教わったのは名刺入れに入れない時だったけど……確かテレビドラマで見たのは……思い出しながらやってみた。
「あれ?俺、お前に教えた?」
「いいえ。ドラマで見た記憶だと……なレベルですけど」
「ふう、俺の後輩お前に譲ってもいいか?」
「どうして?」
「日本語通じない。あれで他の事務所の養成所にいたと言うんだがかなり怪しい」
「双子がいうんだったら……社長に報告しておいたら?」
「ああ、そうしておくよ」
俺……今聞いてはいけない事を聞いた様な気がしますが?
「今のは……聞き流して。伊吹は相当賢いな。ふうは気楽なんじゃないか?」
「まさか。D大の付属高校に在籍中だよな?伊吹?」
「えっ、そんなに頭いいのに……アイドル?」
「履歴書自分で送ってないよな?」
俺は先輩達の前では、始めて自分のオーディションの本戦までの経緯を話した。
「それでもアイドルに慣れたって事は持っているって事だし」
「その学力はクイズバラエティーでは立派な戦力だ」
「それに絶対音感持っていて、クラリネット出来るんだろう?」
「なあ、ふう、10月からのサックスの番組にねじこんだらどうだ?」
「ねじ込むって言い方が悪いぞ。確かにリードを鳴らすって意味では同じだけどさ。伊吹最後の言葉も聞き流していいから。お前の学校って夏休み前にメインの学校行事が終わるのな?」
「そうですね、2学期以降は修学旅行と生徒総会と選挙と球技大会位です」
「ちょっと待て、本当に行事が少ないな。おかしいと思わないか?」
「そうですか?俺小学校からここですから……そんなもんだと思っていましたよ」
俺があっけらかんと答えるのを見ていた先輩達は唖然としていた。
「のんびりしている様に見えるのは、普段の環境からか」
「だろうな。画面越しからもがっついているよりは、おっとりしている方がいいか」
樹さんがそう言うと、俺の頭をくしゃくしゃと撫でる。
俺の年そんなに離れていないのに。ちょっと理不尽な扱いに憮然としてしまった。
「その素直さが武器になりそうだな」
ビビットの皆さんが、俺の売り方の方向性を決めていく。
「あの……その……勝手に方向付けて」
「事務所に提案するまではできるから。嫌な仕事を受けるのも仕事のうちだけど、適性がない事をずっとやっていても無意味だろう?俺達は、伊吹は正統派のアイドルを目指して欲しい」
「正統派アイドル?」
「そう、飛び抜けて何かができるのではなくて、平均的に器用にこなせるタイプ」
「結果的に、テレビ等での露出が多くなるはずだ」
「他のメンバーは、今のレッスンの時点でやれと言われたからやろうって態度がなあ?」
「それを言われると困っちゃうんですけど」
俺は正直に思った事を口にする。確かに他のメンバーのキャラクターは個性が際立ってはいる。
「今日は何のレッスンだろうって、経験があっても頑張るぞって気持ちが欲しい訳ね。デビュー決まったからって胡坐を掻いていたら……伊吹なら分かるだろう?」
「ええ。先輩達が言いたい事は分かります」
俺は俺のままでいろと言いたいんだって分かった。皆と一緒のレッスンになっても楽な方に流されない様にと肝に銘じることにした。
レコーディングの方は、全てパートに分けて収録しているという。今日はソロの部分とかけあう所を収録して編集するが出来上がれば全体の出来上がりを聞くという。
メンバーが順番にレコーディングブースに入って収録している。待っている他のメンバーは譜面を見たり、仮歌を聞いて確認したりしている。時間を無駄にしないで過ごす事がこう言った時には重要なのだと俺は思った。先輩達の仕事を見学している俺を不憫に思ったのか、スタッフさんが仮歌の入ったMP3と譜面を貸してくれた。
「伊吹君はクラリネット吹けるんだろう?これだけあれば十分、分かるよね?」
「どんな曲かは分かりますけど、歌が入らないと完全な形じゃないので」
「まあ、そうだね。あの子達もこの1年ちょっとで凄く伸びたからね」
へえ、先輩達もそうなんだ。それじゃあ俺達のデビュー曲がちょっと残念でもある意味じゃいたしかたないって事?でも、そんなに下手じゃないよな。
「先輩達の歌って……最初から下手とは思いませんでしたよ」
「中には、音程が不安定な子もいてね。レッスンを開始して1年で歌手デビューしたんだよ。基礎をこれでもかって位叩きこまれてね。その結果が今だけども、いろいろ挑戦をしてやりたい事がそれぞれに代わってきたから今後は歌がメインではなくなってくるだろうね」
スタッフさんは寂しそうに呟く。デビューからずっと一緒に作業をしていたのならそう思うのは当然だろう。
「僕は頑張ります。歌うの好きだから」
「君はいいものを持っていそう。君のグループのメンバーも見たけど、君は応援したくなる子だね。そのままで頑張って」
「はい」
俺は譜面と仮歌を聞きながらレコーディングブースを眺めている。譜面を見ていてなんとなく思い浮かんで手書きで五線譜を書いて音符を載せている。ここに木管楽器をのっけたらもっと奥行きのあるオケになる様な気がするなあ。気になる所に手書きで書き加えていくのが楽しくて、俺は周りに気にすることなく集中してしまった。
「伊吹、伊吹?」
楓太さんが俺の肩を叩いた。
「すっ、すみません。ちょっと……」
「何してた?ちょっと見せて……これ、息吹が考えたのか?」
「ええ、こうしたらもっと奥行きが出るかなって思って。木管楽器で追加したらどうかなって」
「ああ、今回はゆったりとしたテンポだからな。これを入れるともっとしっとりする感じだな。この譜面ちょっといいか」
俺がメモ程度に書き留めた譜面を持って、スタッフさんの方に行ってしまった。
その俺のアイデアが採用されてしまって、急遽クラリネットでのアレンジ参加になってしまったのは後日の話。