2
オーディションの翌日の夕方。自宅のリビングはちょっと異様な光景は繰り広げられていた。
「うちの息子にアイドルなんて……無理ですから」
母さん、その認識は間違っていないと思うよ。俺だってどうして選ばれたのか分からないんだから。
「彼が選ばれた理由……笑顔がいいのと、絶対音感の持ち主ですよ。彼は歌のセンターを張って貰います」
絶対音感があるのか?俺?俺、吹奏楽部だから歌は基本的に歌うことないから知らなかったよ。
「はあ……」
「なっちゃんが、デモテープを聞いて見つけたんだ。嫌だとは言わせない」
社長と一緒に説得に来ている楓太さんがちょっと怖い発言をした。
なっちゃんが絡むと人が変わると言うのは……ガチの様だ。でもそれは甘やかしている訳ではなくて、彼女の能力を理解していると言う事でもあるのだろうか?
社長が持って来てくれたのは、俺個別のデビューまでの個人レッスンだ。ダンスレッスンも入っているけれども、俺に一番割り振られている時間は発声練習だ。
「時間がある訳じゃないけれども、彼にはまずは歌唱面を伸ばして貰います。デビュー曲は各自ソロパートもあるけれども、お前はCMカットの部分を全面的に歌って貰うから……覚悟しろよ」
それって……凄く責任重要じゃないか?そんな事俺に出来るのだろうか?
「そんな……責任重大」
「そうだよな。でも僕が全面的にサポートしてあげるし、君達のCMスタッフは僕のスタッフも兼任しているから僕が現場にいても誰も文句は言わないよ。なっちゃんがいてもね」
そういえば、マカロンのCMソングは楓太さんとナツミさんが担当しているんだった。
俺もコンビニ限定のCDを持っている。CMで採用されたものと、結果的に採用されなかったけど収録した音源が全部入っている。楓太さんメインの曲とか、ナツミさんメインとか、最初からセッションしていたり……凄く贅沢だ。先行予約のものに着いていたDVDではほんの少しだけnatsuさんとしてのナツミさんが映っている。ナツミとnatsuさんが同一人物であることは、ついさっき教えて貰った。Natsuさんの時は目元をサングラスだったり、ニットキャップを深くかぶったり、髪の毛を巻いたりして誰か分からない様に計算されている。
「俺でも……アイドルになれますか?」
「どう思う?ふう?誰かを見ているようだろ?」
「ええ。4年半前の俺ですかね?社長」
「そう。ふうもデビュー前は彼と同じことを言っていました。でも今では彼のCMは動画配信のおかげで世界中で高い評価を受ける様になりました。その彼が、君をバックアップしたいんだって。辞めるなんてもったいなくない?」
「それは……楓太さんはビビッドの仕事……大丈夫なのですか?」
「うん。これからは歌はやるけれども、個人が進みたい方向を目指す事になったんだ。その結果、他のメンバーは皆学校を卒業する事を優先している。僕達は最初からデビューが決まっていたから通信制高校だったからね」
「楓太さんは?高校は?」
「僕は、最初から高校を三年で卒業する予定で通っていたから、春から大学生。とは言っても通信だから普通の学生さんよりは学校に通う日数も少ないかな。それに合わせて僕も仕事のシフトを変えたくて前ほど入れてはいないんだ。あっ、これは社長と相談した上だから君達とは関係ないんだよ」
楓太さんは俺達とは無関係で決まっていた事だよと強調してくれる。役者も歌も、教養番組のアシスタントもこなせる彼は最終的にどの方向に向かいたいんだろう?
「周防君が気にする事ではないよ。僕の場合、こうなる事は最初から分かった上でのこの仕事だったわけだから」
「は、はあ」
俺は不安になって社長を見るけど、社長も穏やかに彼を眺めている。もう、断る理由がないのだろうか。
「でも、周防……この子は取りたてて取り柄なんてありませんから」
その言葉を待っていたかのように社長が言葉を開いた。
「大丈夫ですよ。うちの事務所に入って貰えれば、例えデビュー後すぐに芸能活動を休止しても、最低限のマナーは習得済みです。社会に出ても通用する程度には」
ちょっと待ってくれよ。それ……話に聞いた事がある。この事務所は無料で受けられる教養講座が多くて、最近は一部の講座に関しては一般の人も格安で受け入れているって。どこで聞いたんだっけ?
「それはかなり素敵ですね」
「息子さんを、こちらにお預かりさせてくれれば浅葉夫人と同等の茶道の手ほどきは出来る様に仕上げますよ。昨日の茶会は大変楽しかったですよ」
楓太さんが母さんにいきなり先月の茶会の話題をした。そう言えばあの時の母さんは……かなり浮かれていた気がする。時期家元にお会いできたのよ。若くって素敵だった……どうして楓太さんがそんな事を知っているのだろう?
「えっ?もしかして……あなたは?」
「ええ。柏木雅です。順調に上達されているので僕は嬉しいですよ。あっ、僕の事に対して第三者に話しますと、僕は発覚後に引退して柏木流に専念することになりますし、周防君の活動のバックアップもできなくなりますね」
ちょっと寂しげに母さんを楓太さん……いや、時期家元は見ている。飄々としていて当然だよな。普段からこんな狸みたいな人達のやり取りをしていたら。ってか、母さんがこの秘密を井戸端で話したら、母さんも破門になるんじゃないか?
驚いていた母さんも、なんとなく状況が分かったみたいだ。この人は朗らかなのが取り柄な人だけど、今はそんなのは何処かに飛んで行ってしまったみたいだ。
「周防。やれるのなら、母さんは反対しないわ。学校はどうだった?」
「内部進学の時の単位をしっかり取れれば大丈夫だと思う」
「そう。それでは、学業の両立を条件に活動を認めるって契約でも構いませんよ。周防君……これからは伊吹君だけど、君もそれでいいのかな?」
社長に聞かれて俺は無条件に頷いた。もうそれしか選択の余地がないだろうよ。
まさかの茶道教室ルートから攻略なんて、おきて破りもいい所だ。
そうして、俺の契約はあっさりと結ばれてしまった。楓太さんが一緒だったのは恐らく最初からこうなると計算されていたのだろう。
だとしたら、俺はとんでもない所に放り込まれたのでないのだろうか?今、この一瞬だけ俺は自分の環境を呪いたくなった。