「五十一」
……甘い、いい匂いがした。
頬をくすぐる、さらさらとした感触も心地良くて、ずっと微睡んでいたいような気分だった。
だけど、意識の彼方から聞こえてくる声が、俺を呼んでいた。
「――いさま、にいさま、起きて下さい、もう朝ですよ」
……勘弁してくれ。帰ってきたの何時だと思ってんだ。昼までは寝かせてくれ――……今日は早妃もいないんだし。
「まあ、やっぱり朝寝坊する気だったのですね。許しませんよ、にいさま」
ハッとして眼を開けると、眼の前に早妃の顔があった。
比喩でも何でもなく、すぐ眼の前、ともすれば息のかかる位置に早妃の顔がある。辺りが暗いように見えるのは――ああ。広がった早妃の髪が、ベールのように光を遮っているんだ。
しかし、どうして早妃がいるんだ? 早妃は今、佐保ちゃんの家にいるはずじゃないのか。
「えと、その――やっぱりにいさまが心配だったので、急いで帰って来ちゃいましたっ」
なんて。俺の顔を間近から覗き込むようにしながら、戯けるように笑う。
……まあ、それはいいとして。
眼の前に早妃の顔があるこの状況じゃ、起きようにも起きられないわけだが。
「あら、それは困りましたね」
なんて言いながら、物凄く笑顔なのは何故なんですかね。退く気配もないし。
……二度寝してもいいかな。
「だめです♪」
にこにこ。
わけが分からん。何をそんな嬉しそうに笑っているんだ。
……退かないなら、お兄ちゃん寝ちゃうぞ。
「もう、しようのないにいさまですねっ」
まるで怒ったように言う早妃だったが――結局、最後まで笑顔なのは変わらなかった。
不可解な上機嫌っぷりではあったが、まあ何にしろ起きられるようにはなった。……起きたくはなかったが。
大きな欠伸を一つしながら、ふと見やれば――早妃の傍らに、見覚えのある少女が立っている。
他でもない。佐保ちゃんだ。
「あ……あっ、あのっ、えっとっ……おっ、おはようございますっ、先輩っ……!」
眼が合うなり、赤い顔で声を上擦らせる。……不可解な少女がもう一人。
だが一番不可解なのは、何故彼女がここにいるのかと言うことだ。
「佐保ちゃんのお父様にお車を出して頂いたので、どうせなら佐保ちゃんもご一緒にと」
なるほど。早妃が無茶を言ったわけか。まだ眠いだろうに、佐保ちゃんも災難だなあ。早妃なんかと友達になったばかりに。
……俺が言うのも何だけど。
「――もうすぐ朝ご飯出来ますから、お顔洗ってらして下さいね」
こっそり嘆息していると、割烹着の白が眩しい早妃が言う。
慌てて笑顔を取り繕いつつ頷くと、早妃は満足そうに笑って暇を告げた。
早妃も佐保ちゃんも去り、静寂が戻る部屋。
それじゃあ、顔を洗いに行きますか――と、重い腰を上げようとした瞬間だった。
「――今日は、私が正士郎さまを起こして差し上げようと思ってましたのにぃ……」
……早妃の気まぐれの被害者が、そこにもあった。




